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しなやかな「変化」で時流に合った非破壊検査の会社をつくる

株式会社アイペック
富山で初めての非破壊検査の専門会社。ビルや橋、トンネルの建築物のほかガソリンスタンドの地下タンクや埋設配管などあらゆる構造物の検査に対応する。堅実な経営と確かな技術力に加え、時流を読んだサービスで安定成長を続ける。富山県の中小企業経営モデル選定企業。
 
代表取締役兼相談役    高見貞徳
1940年富山市生まれ。中学卒業後、陸上自衛隊通信学校に入るが大学への進学を志望し除隊。夜間定時制高校や技能訓練校を経て、大阪と富山の鉄工所で設計士として働く。29歳で独立。非破壊検査の資格を取得し法人を設立した。いくつもの危機を乗り越え、着実に会社を成長させてきた。

「成功」ってなんだろう

y=axという1次関数がありますね。それを事業の実績に置き換えるなら、aの値は大きい方がいい。そんなイメージを持つ人は多いかもしれません。ところが、私はそのようには考えません。傾きが急になるからです。急激な成長よりも大切なのは、安定して成長を続けることです。傾きが右肩上がりである限り、aは小さくてもいい。そう私は思います。

「もっとよくなりたい」。物心ついたときからそんな気持ちで生きてきた私は、高度経済成長期に起業しました。このときは、日本が世界に誇る多くの新しい産業や技術が生まれ、経済が飛躍的に向上した時期でした。ソニーや本田技研、カシオ計算機などもこの時期に創業しています。若い方は想像が難しいかもしれませんが、高度経済成長期というのは誰もが「明日はきっとよくなる」と信じられた時代だったのです。
当時は誰もが、戦中戦後の苦しい時代を生き抜いてきた体験を共有していたせいかもしれません。ところが、この高度経済成長期のころから、成功モデルと呼ばれるものが登場します。できるだけ高い学歴を得て、一流企業に入る。それがもっとも安全で、成功している人の代名詞とも言われ始めたのです。
「起業なんてとんでもない」。ほんの少し前まで、それが世の中の一般的な感覚だったように思います。それが2000年代以降、起業を志す若い人が少しずつ増えてきました。私はそうした状況を嬉しく思っています。
私が起業して50年が経ちました。爆発的な成長はないものの安定的に伸び続けた当社は、今、非破壊検査の分野では富山でナンバーワンの存在となりました。しかし、最初から非破壊検査の会社だったわけではありません。長く続けるには継続だけでは不十分。ときには思い切った転換も必要です。今風に言うなら、ピボットですね。
戦前生まれの私が、どのような変遷を経て事業をピボットしたのか。多くの経営者や、これからの時代を生きる若い起業家に向けて、私が伝えられることをお伝えする

のがこの本の趣旨です。

非破壊検査で見えない部分を調べる
 

 まずは私が代表取締役兼相談役をしている会社、株式会社アイペック(以下、アイペック)を紹介したいと思います。 アイペックは非破壊検査を行う建設コンサルタントの会社です。ほとんどの方は、非破壊検査をご存じないでしょう。非破壊検査とは、ビルや工場などの構造物や、橋やトンネルなどの社会インフラの内部を破壊せずに調べる検査方法のことです。
非破壊検査が登場する前は、対象物を切断したり一部を壊したりして欠陥の有無を確認していました。しかし、この方法は対象物の価値を損ないますし、時間やコストがかかりすぎるのが問題でした。そこで内部を破壊せずに調べられる検査方法が登場したというわけです。近年は非破壊検査の存在も世に知られるようになってきました。
というのも、高度経済成長期に建設された橋やトンネルなどが老朽化してきたこと、安全性に対する認識の高まりにつれて、構造物の寿命診断のニーズが増えていることが要因です。
非破壊検査を依頼するお客様は、構造物を少しでも長くもたせようとして当社にご依頼くださいます。特に橋やトンネルなど社会インフラの建設には桁違いのお金がかかりますから、できるだけ長く使いたいと思うのは当然のことですよね。
構造物の欠陥は、目視やハンマーを使った打音検査でもある程度見つけられるものの、それだけではどうしても抜けや漏れがあります。構造内部の欠陥を見つけるには、人の病気をレントゲンやCTで検査するように、非破壊検査で内部の状況を調べた方が安心です。事故を起こさないために、そして維持管理のコストを下げるために、非破壊検査で劣化診断を行っています。

なぜ検査員はケガをしてはダメなのか
 

 アイペックの強みは、CIW(日本溶接協会)の資格者が多いことです。その数は全国に約150社ある同業の中でも、上位にランクされています。
 鉄構造、コンクリート、土木などさまざまな工種の検査に対応できることもアイペックがお客様にご支持いただいている理由だと考えています。建設業界には安全衛生水準の向上に貢献した事業者を表彰する安全表彰というものがあるのですが、アイペックはその常連です。一般的に無事故は5年ほどといわれていますから、それと比べて30年もの間事故がない当社は高い水準といえます。
 私が社員にいつも言っているのは「安全を守る仕事なのだから、ケガしたら私たちの仕事の質が疑われるよ」ということです。みなさんは、「そりゃそうだろう」と思うでしょうか。言葉通りに受け取ることもできますが、会社が社会にどのような価値を提供しているかを実感できていないと、しっくりこない言葉だと思います。
 近年、若い人の間で「自分の仕事にどんな意味があるのかわからない」と感じている人が増えているといいます。勤めている会社の事業が社会にどんな意味を持つのか、そしてその一員である自分の仕事にどんな意味があるのかがわからないというのです。自分を成長させてくれる意味のある仕事をしたいと考える人も増えていると思うので、その疑問は深刻です。
なにしろ、1日のうち8時間は仕事をして過ごします。1日の3分の1です。長い人はもっと多くの割合を占めているかもしれません。それなのに、そこに意味を見出だすことができなければ、なんとも悲しいことではないでしょうか。
アイペックは社員を対象に、仕事への満足度調査を定期的に実施しています。その調査では、93%が「私の会社の事業は社会の役に立っている」と回答しました。「私は今の仕事を通じて、さらに新しい知識や能力をみにつけることができる」と回答した社員は7割以上。私はこの結果を見て、社員が会社の役割を理解し、会社を自らの人生設計を実現する場としてとらえてくれているのだと感じました。
このようなことが影響しているのか、大卒社員がほとんどいなかったアイペックにも、最近は大卒者からの応募が増えています。2022年、アイペックは富山県の中小企業経営モデルにも選定いただきました。

お金がない。けど、勉強したい
 

 そもそも、なぜ私は起業したのか。ここから、その背景をお伝えします。
 1940年、富山県富山市で私は生まれました。家族は両親と祖父母のほか7人兄妹の計11人です。私が生まれた翌年、日本は太平洋戦争を始めましたから、物心ついた頃には山中に疎開していました。
 戦争が終わり自宅に戻ったものの、11人家族の大所帯ですから、とても住みにくかったですね。家は狭い上、戦後なので十分な食べ物もありません。いつもお腹を空かせていた私は、中学を卒業すると横須賀にある陸上自衛隊通信学校に入学することにしました。
 私は小学生の頃から勉強が好きでした。ところが、家には私を高校に進学させられるだけの余裕はありません。勉強を続けるには陸上自衛隊の通信学校に進学することは最適な選択に思えました。これでお腹いっぱい食べられる上、窮屈な暮らしから解放されるのですから。
 通信学校では、4年かけて電子工学の基礎を勉強することになっていました。でも、学ぶうちにどんどん勉強がおもしろくなっていき、大学に進学したいという気持ちが強くなってきました。そこで途中で自衛隊を除隊し、夜間の定時制高校に編入。アルバイトをしながら大学を目指しました。
しかし、合格しませんでした。家庭の懐事情を考えると、浪人するような余裕はありません。そこで大学進学をきっぱりとあきらめ、大学に行かなくてもできることは何かを考えました。
 それが商売をすることです。当時、私は19歳でした。

勉強は学校じゃなくてもできる
 

 高校を卒業したらどうしようかと思っていた矢先、兄に「溶接をやったら」と勧められました。そこで溶接技術を学ぶために1年間、技能学校で職業訓練を受けることにしました。今から思えば、溶接を始めたことが、今につながっているような気がします。
 溶接の実技は4人1組。1度に1人しか実習できないので暇そうにしていると、先生から「待っている時間に製図の勉強をしたら」と言われました。もともと勉強好きでしたから、何でもチャレンジしました。製図は独学ではありましたが、製図の心得がある人が欲しいという話をいただき、卒業後は大阪の鉄工所に就職しました。「拾ってもらった」というほうが正確かもしれませんが。
 初年度はそれほど任せてもらえる仕事がありませんでした。昼は鉄工所に勤め、夜は大学で機械工学と電子工学を勉強することにしました。念願の大学です。ところが1年もすると、任される範囲も増えて夜まで仕事をするようになり、大学に行く余裕がなくなってしまいます。
 ここで私は、自問しました。目標は大学で勉強することなのか? 今どんな人間になりたいと思っているのか?と。
答えは、プラント設計士として使い物になる人材であることを、会社に認めてもらいたいということでした。勉強は、学校でなくてもやる気と本さえあれば、ある程度のところまでは自分でできる、と思えるようになっていました。そう決めて大学を退学しました。
 それほど、私は当時、プラント設計に夢中だったのです。

設計士の経験を積んだ会社員時代
 

 ここでプラント設計の仕事がどのようなものかを簡単にお伝えしたいと思います。
 プラントの設計士は、プラントの目的や大きさに合わせて、工場の柱やタンク、機械をどこに配置するのか、電気の配線や水道管をどのように配置すればよいかを考える仕事です。
まずは大まかにプラントの形や配置を決めた後、次に実際にプラントを建てるための細かな計画を作ります。プラントの建設工事の予算を組むときは、設計図を元に積算しますから、とても重要な仕事と言っていいでしょう。
 ときは高度経済成長期。どんどん工場ができたので、仕事も大忙しでした。けれど、あるときからどうにも咳が止まらなくなります。息をするのも一苦労というありさまで、仕事どころではなくなってしまったのです。
 原因は光化学スモッグでした。車や工場の排ガス規制がなかった当時、都会の空気はたいへん汚れていたのですね。「こんな空気の悪いところにいてはダメだ」と医者に言われ、4年勤めた大阪の会社を辞めて、比較的空気がきれいな郷里・富山に戻ることにしたのです。
 タイミングよくプラント設計士を探している会社と出会い、就職することになりました。その後、結婚や第1子の誕生など個人的なイベントを経て28歳のとき。「いつか自分で事業をしたい」と考えていたことを思い出して、退職を申し出ました。
 ところが、すぐに退職することはできませんでした。何度か会社と交渉を繰り返して、退職。ようやく個人の設計事務所を開設したのは1969年のこと。当初の予定より1年ほど遅れていました。

運命の出会い。非破壊検査と出会う
 

 それから3年ほど経った頃、富山県内の水力発電所に行きました。水力発電は山の高いところにありますよね。ダムに貯まった水がパイプを通じて下に落ちるとき、発電用のプロペラが回って発電できるわけです。
 プラント設計のために行ったのですが、発電所の人から「設計士なら、水力発電に使うパイプやプロペラの溶接部分の検査ができる業者を知っているだろう?」と尋ねられました。
溶接部は鉄でできていますし、とても大きなものですから、分解して場所を移して検査するなどというのは現実的ではありません。日本の近代製鉄の発祥の地のひとつである富山は、鉄鋼業が盛んです。発電所の人も溶接部のレントゲン検査ができる鉄工所も知っていたので連絡したものの、どこも忙しくて対応できないという話だったということで、私に尋ねてきたのでした。
 そのとき私は初めて非破壊検査の存在を知ったわけですが、そのときはまだ非破壊検査を事業にしようとは思ってもみませんでした。

富山で「非破壊検査」の勝算
 

 結局、発電所は非破壊検査ができる業者を大阪から呼んだようです。県内に検査できる人がいないのですから、仕方ないですよね。
 ただ問題なのは、費用が高くつくということです。検査は数時間、長くても1日あれば終わりますが、大阪の検査員をお願いすると、富山―大阪間を移動しないといけません。検査日の前後1日ずつかかります。余分に拘束するわけですから、人件費だけで3倍の費用がかかってしまうのです。
 それなら私が富山で非破壊検査をすればいい、とひらめきました。そうすればプラント側にとっても、私にとっても都合がいいはずです。
 当時、私は1人で事務所を経営していました。プラントの製図を描く設計士の仕事は需要がはっきりしています。非破壊検査はいつ発注があるのか読めない部分もありますが、いろいろ試算してみたら、自分が受注したプラント設計の仕事量と非破壊検査の仕事量を半々になるように受注できれば、事業は成長する算段が成り立ちました。
 コンスタントに検査の仕事の需要があれば人を雇うこともできますし、時期が集中するようなら繁忙期だけ手伝ってもらうという方法もあるでしょう。事業の柱に非破壊検査を据えるのは、とてもいい考えだと思いました。

勉強、勉強、勉強。会社設立までの道のり
 

 けれども、非破壊検査は思い立ってすぐできるものではありません。非破壊検査には放射線や超音波などの専門的な技術が必要だからです。また、放射線を扱うには旧労働省の「放射線取扱主任者」の試験に合格して資格者にならなければなりませんでした。
 レントゲン検査に使うX線は、医療や非破壊検査のような工業の現場で広く利用されていますが、皆さんご存知のように身体に悪い影響を与える作用も持っています。そのため、X線を照射するときはX線を遮蔽できる壁や防護服で身を守ったり、線量計を装着して被ばく量を測定したりするなど、特別な取り扱いが必要です。
 レントゲン写真を現像するときに使う現像液も、実は危険な薬品です。手についたり目に入ったりするとヒリヒリするので、現像液を扱うときは手袋やメガネをしなければなりません。また、吸い込んだり飲み込んだりすると中毒を起こします。それほど毒性のある薬品ですから、捨てるときも注意が必要なわけです。
 知り合いの鉄工所に頼み込み、作業所を使わないときに撮影や現像の技術を習得させてもらいました。設計士の仕事で日銭を稼ぎながら、3年かけて勉強したのです。
 加えて非破壊検査の検査員は写真を撮影して現像するだけでなく、検査の結果が合格なのか不合格なのかを判定できなければいけません。結果を判定するための資格取得に向けて勉強をしたので、さらに2年かかりました。
 非破壊検査を事業としてやっていくための体制を整えて、ようやく会社を立ち上げることができます。資本金の一部を妻の実家に出してもらい、400万円を集めて1976年にアイペックの前身となる、富山検査株式会社を創業しました。

1人ブラック企業。がむしゃらに働く
 

 会社は、結婚したときに建てた自宅の隣に建てました。製図室の隣に暗室を作り、設計の仕事と非破壊検査の仕事を行き来できる環境を整えたのです。
 創業してからの私は、寝る間も惜しんで働きました。朝8時から夜の10時ごろまで仕事をするのもしょっちゅうでした。あるとき、朝から明け方の4時ごろまで図面を描き、一度寝て、8時に起きてお客様の元に図面を届けるという仕事の仕方を10日ほど続けたことがあります。すると身体が言うことをきかなくなり、這ってしか動けない状態になってしまいました。富山に帰ってきて、喘息はほとんど治っていたのですが、無理をすると身体に出てしまう性質のようです。
 今、こんな働き方をしていたらとんでもないブラック企業だと思われそうですね。それでも当時は頑張ったら、頑張っただけ報われると信じていました。それだけ日本の経済が登り坂になっている空気がありました。
 そうこうするうち、どんどん仕事は忙しくなっていきました。そこで、まず外注したのはレントゲン写真の撮影をする人です。放射線を取り扱ったり、検査を判定したりすることはできなくても、写真を現像してもらうことはできると考えました。


50年間で乗り越えた3つのピンチ
 

 社員の採用を始めたのは、会社を設立してから5年ほど経った1981年ごろのことです。あっという間に社員は10人になりました。実際は、増え続ける仕事に対応するため、応募のあった人をみんな採用していました。そのうち、私は3つのピンチに遭遇します。

 

〈ピンチ① 社員が相次いで退職〉
 社員10人のうち、6人が辞めてしまいました。
 原因は、富山に村田製作所の工場ができたことでした。給料や福利厚生などの条件は、とてもではありませんが、大手企業にかないません。社員を慰留できるカードを持っていなかった私は、なすすべもありませんでした。自分が先頭に出ていくことで案件をこなしたり、納期を遅らせてもらったりしてなんとかしのぎました。
 これがこれまで会社を経営してきた中で、私が経験した最初のショックです。

 

〈ピンチ② バブル崩壊で初めての赤字転落〉
 バブルが崩壊した後の1995年ごろでした。非破壊検査という事業の特殊性もあって、当社の取引先の多くは自治体や上場企業です。建設業の事業は、発注から検査が完了するまでに2、3年かかることはめずらしくありません。ですから、経済情勢の影響は数年遅れてやって来ます。
バブル経済が崩壊した1991年から4年ほど経ったころ、パタっと仕事がなくなりました。
 年度、初めて赤字に転落しました。
しかし、私はうろたえませんでした。実際、富山検査株式会社は翌年から少しずつ忙しさを取り戻していきます。というのも、富山で非破壊検査といえば、ほぼ独占状態にあったからです。検査の需要があれば間違いなく、当社にお任せいただけると考えていました。

2億円が会社を支えてくれた
 

 私がうろたえなかったのには、もうひとつ要因がありました。それは、2億円ほどの内部留保があったことです。バブルが弾けるまでの日本経済は、イケイケドンドン。日銀の金融緩和や円高で、日本中が投資や財テクに走っていました。積極的に融資をしていた金融機関は、バブルが崩壊すると資産価値の急落に伴って多額の不良債権(貸し付けた金を回収できなくなる状態)を抱えることになりました。
 金融機関は多くの会社に対し、それまでは「少しでもいいから、お金を借りてくれ」という態度だったのに、急に貸した金の一括返済を求めたのです。このことを当時の新聞は「貸し剥がし」と表現していました。貸し剥がしにあった企業は倒産やリストラに追い込まれました。
 しかし十分な内部留保があった当社は、バブル崩壊の混乱と距離を置くことができました。取引先の支払いも現金で対応できましたし、給料の遅配や、リストラもせずに済んだのです。
 そのうち平常運転に戻るだろうと思って過ごしているうちに、案の定、少しずつ業績は回復していきました。

 

〈ピンチ③ 社長退任後に内紛〉
 3つ目のショックは、社長を譲ったときのことです。60歳を機に代表を退くことを決めていた私は当時、38歳の社員Yに社長職を譲ることにしました。
 驚いて「会社を潰す気ですか」と尋ねた彼に、私は「私が会長としていつでも相談に乗るから心配ない」と言ったことを覚えています。Yは二つ返事で社長に就任しました。
 Yは富山の大きな建設会社の出身で、大学卒業後は四国と本州を結ぶ瀬戸大橋の建設事業にかかわっていました。私はYを高く評価していたのです。評価の理由は、瀬戸大橋の建設事業にかかわることがどんな意味を持つのかをお話しした方がいいかもしれませんね。
 瀬戸大橋は本州と四国を結ぶ鉄道道路供用橋です。この橋ができる前、本州と四国は海で隔たれていました。本州と四国の間は霧が深く海流も速いので、船で渡るのが危険な海峡として知られていました。
 四国は本州や九州と比べて、人も産業も少なく、日本の近代化の流れの中で取り残されている面がありました。橋の建設計画は明治時代からあったそうですが、技術や費用の問題で実現しなかったのでしょう。
 そんな瀬戸大橋の建設事業が始まったのは、高度経済成長を経た1978年のことです。世界に誇る当時の日本の技術力の結晶でした。海底や海上の難工事を乗り越えて、10の橋が完成します。
 中でも一番四国側にある南備讃瀬戸大橋は、10の橋のうち最も長い1,100メートルの吊り橋です。鉄道と道路が同じ橋を通る構造は世界でも珍しく、そんな橋の建設事業には日本中の建設・土木会社からエースが集められたわけです。
 その仕事が終わり、私はYを当社に招きました。Yは入社間もなくして、当社の社員にも慕われていましたし、私はいい選択をしたと思っていました。
 しかし、雲行きがあやしくなってきたのは、Yの後輩が入社したころからです。Yと後輩の何人かで、富山の高岡、埼玉の大宮、そして秋田に当社の支店を出す計画が立てられました。
 私のところには一切、相談はありません。

変化に対応できる身軽さを保つ
 

 私は出店に反対でした。支店を出すとなると、場所を借りなければなりません。毎月の家賃のほか、事務所の契約には敷金や礼金がかかりますし、人も配置しなければいけません。固定費が大幅に増えることになります。
 たとえば、大きな車にはそれを支える大きなタイヤが必要です。すると車体が重くなるので、大きなエンジンをとりつけなければなりません。製造コストも高くなるので、それに見合った豪華な内装が求められるようになります。すると、車の値段も高くなりますし、排気量の多い車を維持するには、より多くのガソリン代と税金を払うことになります。つまり、トータルコストが増えてしまうのです。
 たまたま車を例にしましたが、私は車嫌いではありませんし、高級車が悪いと言いたいわけでもありません。むしろ富山は車社会ですから、車は必需品です。
そうではなくて、何のために車を持つのか。そこに何を求めるかを考えるべきだということです。高級なものは心地よさや、それを持つことによる満足感も得られます。一方で、車を移動やモノを運ぶ手段としてだけとらえると、果たして高級車が適切なのかという話です。
 事業はいいときだけではありません。山あり谷ありです。身の丈に合った経営が一番だと私は思います。むしろいいときこそ、悪くなったときのことを想像しておかなくてはいけません。
 モノなら処分すればすみます。でも、人はそう簡単に手放すことはできないですよね。市況が悪くなって首が回らなくなり、そのとき雇いすぎたと気づいても遅いのです。
 支店の出店計画を知った私は、猛烈に反対しました。途中まで進んでいた事務所の契約はキャンセル。適切な手続きを経ずに計画を進め、会社に損失を出した責任でYは社長退任、かかわった社員は辞めてもらうことで、この件を収束させました。今は私の娘が代表を務めています。

人生いろいろ。でも私は「運がいい」
 

 このようなピンチはありましたが、概して私は自分を運がいい男だと思っています。古くから私を知る親しい友人も「あのときは大変だったけど、運がよかったよね」と言っているくらいです。
 すでにお伝えしたように、私は大家族の中で育ちました。戦争の影響で物心ついたときから、いつもお腹を空かせていましたから、早く家を出たいと思っていました。私を高校に行かせる余裕が実家になかったのは残念なことでした。
 ですが、陸上自衛隊の通信学校のチャンスをつかみ、溶接や製図の道に進んだのが、いい選択でした。タイミングよく大阪と富山の鉄工所で働き口が見つかったことも、水力発電所の現場で非破壊検査の重要性に気づいたこともラッキーだったと思います。独立後は、爆発的な成長を遂げることはありませんでしたが、仕事も社員もゆっくりと増えていきました。
 初めにお伝えしたように、y=axの1次関数の傾きは、小さくてもいいのです。全く伸びないのは問題ですが、急に伸びるのも危険です。ですから、売上目標を何億円と設定し、急速に事業を大きくしようと思ったことはありません。
 10人いた社員が一気に半分以下になったときも、バブルが崩壊して仕事がなくなったときも、そして社内で内紛が起きたときも「なるようになる」と思っていました。

人生は自分でコントロールする
 

 でも、物事をすべて「運」で片付けてしまっては、みなさんの参考になりませんよね。ここからは「運」とは別の観点で、私の思いを伝えたいと思います。
 社長というと、部下に指示を与えているイメージがあるかもしれません。ところが、私はどちらかと言うと人に意見するのは苦手です。
 19歳のとき、私はいつか自分で事業を始めようと決意しました。それは自分のことは自分で考え、自分が実行できるほうが、人生は楽しいと信じているからです。
 仕事の増え方に対して人が足りなかったころは、私も現場に入っていました。けれど少しずつ社員が増えてくると、私がいないほうがかえってスムーズに現場が回ることがわかってきました。私がいると、社員は監視されているように感じるようなのです。古くから在籍する気心知れた社員から「あんたはおらんでいいよ」と言われたこともあって、徐々に現場に行かなくなりました。
 監視されていると思いながら仕事するのは、誰だって楽しくないですよね。それ以上に重要なことは、「いつまでも指示を受けていたら、人は成長できない」ということです。
だから、先ほどお伝えした社員が減ったときも、うちで働くのが嫌な人は無理して残る必要はないと私は考えていました。
 2023年12月現在、アイペックには約80人の社員がいます。パートも入れれば、かかわっている人数はもっと増えます。いずれにしても社員の顔と名前が一致するのは100人が限度だと私は思っています。それ以上人数が増えると、お互い認識できなくなるのではないでしょうか。
 今いる社員は、自分の仕事には厳しい一方で、周囲の人に対してはいい意味で期待していない人が多いと感じています。「人に期待しない」というと、冷たい人間だという印象を持つ人もいるかもしれません。
 しかし、他人の行動にがっかりしたり怒ったりするのは、期待しすぎているからではないでしょうか。相手が自分の思い通りになることを勝手に期待して、その通りにならないから落胆したり憤りを感じたりするわけですよね。
人に期待しすぎず、自分をコントロールする。
 これは思い通りになることよりも、圧倒的に思い通りにならないことの方が多い幼少時代を過ごした私が、人生の早い段階で悟ったことでもあります。他の人から見たらピンチに思えることを「なるようになる」と思えたのは、そうした生い立ちや考え方のせいかもしれません。

技能や知識より大事な仕事への向き合い方
 

 私が会社の危機を必要以上に悲観しなかったのは、「富山で非破壊検査の需要があれば、まず話は当社に来るだろう」と思えていたことも理由だったと思います。
 ただ、お客様は当社を儲けさせるために発注してくださるわけではありません。当社が持っている技能や知見を活用して、自分の目的を達成しようと考えているからお話をいただけるのです。
 お客様に選んでいただける存在になるには、技能や知見を磨くだけでなく、仕事に対する向き合い方も大切だと思います。微妙なニュアンスで難しいのですが、仕事は儲かるかどうかだけではありませんし、儲からない仕事だからといって、いい加減にやっていいものではないでしょう。そういう仕事への向き合い方をお客様は冷静に見ています。
 ただ、事業を継続していくには、儲けを出すことも必要です。儲かるとは、利益が出ている状態のことをいいます。売上げが高くても経費が多ければ、利益があるとは限りませんし、反対に売上げがそれほど多くなくても、利益を出すことはできます。
 先ほど〈ピンチ③〉で触れましたが、私が支店を出すのに反対だったのは、このことと大いに関係しています。もともと富山で非破壊検査を始めたのは、県内に日帰りで対応できる会社がなかったからでした。大事なことは、どれくらい「余裕」を持たせられるか。そう考えると、私は支店を広げる計画には反対するわけです。
もう少し説明しましょう。「余裕」には経費だけでなく、社員の働き方や健康も含まれます。支店網を広げて遠方の検査を請け負えば、受注金額(売上げ)は大きくなるでしょう。しかし移動が長くなれば交通費や宿泊費もかかります。
それはお客様にとって、いいことなのでしょうか。加えて、社員の時間と身体を拘束することになります。無理をする、あるいは無理をさせて、余裕がなくなれば、どこかでひずみが生じます。
 余裕とは、金銭面だけで判断するものではなく、総合的な視点で見るべきものだと思います。

事業の継続は、経営者の責任
 

 人に期待しすぎない一方で、この50年の間、私は自分自身との約束を守ることに必死でした。
それは……「絶対に、会社を倒産させない」ということです。
 20代でサラリーマンをしていたとき、こんな出来事がありました。集金先の会社の社長が、私があいさつをしているのに、そっちのけでテレビの相撲中継を見ていたんです。もちろん日中の就業時間中に、です。
 私は、自分が軽んじられたように思えたことも不愉快でしたが、それ以上に不景気なご時世にテレビを見ている余裕があるのかと、その社長の「経営者としての姿勢」に疑問を感じました。
その半年後、その会社は倒産しました。
 単なる偶然だったのかもしれません。しかしその一件は、経営者の心の有様が、経営状況に反映したのだ、と私には思えてなりませんでした。
 ちょっと生意気かもしれませんが、私はサラリーマン時代から「他人の振り見て我が振り直す」ことを意識してきました。そして、いざ自分が独立するとなったとき、何を大切にするべきかを考えてきたのです。
 なぜ絶対に倒産してはいけないのか。私はそのことを自分への約束にしてきたのか。
倒産は自分だけでなく、社員やその家族、取引先など多くの人に迷惑をかけることです。
 人に迷惑をかけない。私の根底にあったのは、その一心だったと思います。

正解は変わる。自分のやり方にこだわらない
 

 アイペックの現社長である娘は、私とはまったく違う経歴の持ち主です。彼女は大学を卒業してからの約10年間を、米国ニューヨーク州の公認会計士として過ごし、帰国後は東京の金融機関で働いていました。
当社に入社したのは、彼女が40歳を過ぎたころのことです。同時通訳もできるので、国際会議の場や教育現場の講演に呼ばれることもあるようです。私が社長をしていたころとはまったく違うネットワークを持っています。女性であり、異業種、海外の経験を持つ娘は、彼女なりの方法で会社をいい方向に導いているなと感じています。
 いま彼女が取り組んでいることの柱は、社員の「働きやすさ」と「連携」でしょうか。
当社は2019年の本社移転を機に、リモートワークやフリーアドレス制を採用しました。フリーアドレスは、社内に自分の決まった席を持たないワークスタイルで、東京ではかなり普及しているようですが、富山ではまだまだ少数派です。当初は「自分の席がなくなるのは困る」という反対意見もありました。
しかし私は、働きやすい環境を実現するには、どこでも働ける状態をつくることが必要と考えました。フリーアドレスを実現するために、社員一人ひとりが持っているモノの量をダンボール1箱程度に収まる程度まで整理してもらいました。ペーパーレス化で、だいぶモノが減りましたね。紙をなくす代わりにデータをクラウドに移行し、どこからでもアクセスできるようにしました。
そうなると次の心配は、セキュリティです。そこで当社は社員にモバイルPCとiPhoneを支給しました。
 自分の机がなくなったことで、うれしい効果もありました。社員のコミュニケーションが活性化し、連携が生まれたのです。社員たちは進行中のプロジェクトチームごとに集まったり、ITに詳しい同僚の隣に座って学んだり、その日の目的に合わせて席を決めるようになりました。
 会話が生まれただけでなく、他部署の動きが見えるようになったことで、ビジネス的な視点でものを考える社員が増えたのです。
 2021年からはノー残業デーに社員の資格取得を支援する制度をつくりました。水曜日の夜に会社で自習すると、2,000円の手当をつけるようにしたんです。
 すると資格試験を受ける社員がこれまでの4倍に増え、合格率は2割アップ。これに触発されて、事務職の社員も技術系の資格をめざすようになりました。技術を理解することで業務の内容をより深く理解できるようになり、報告書も早く、正確に出来上がるようになりましたね。業務の質や効率が上がっただけでなく、連携が強くなったというわけです。
 社内の勉強会はこれまでも開いたこともあったのですが、目に見える効果はありませんでした。
 これまでお伝えしてきたように、私は人の行動にあまり口を出すタイプではありません。「やりたい人はやるだろう」。そんなふうに思う性格ですから。
 けれど、コミュニケーションを大事にしたり、みんなで同じ目標に向かう時間をつくったりすることで、人は変わるものなのだと、この年になって知りました。今の時代には仲間と取り組む仕組みが求められているのだと、80代になっても気づきを得ています。

変わるから続けられる
 

 非破壊検査の現場や技術について、娘はものすごく勉強していますが、技術者と同じレベルで理解するというのはそう簡単ではないでしょう。ただ技術面については他にフォローできる人間もおりますし、代表がすべてを細かく知っている必要はないと考えています。
 非破壊検査のやり方や事業の形も日進月歩で進化しています。当社は建築士事務所でもありますので、検査だけでなく、診断結果を踏まえて補修工事の設計を追加提案するなど関連事業の領域に進出できる体制を整えてきました。
 近年はクラウドを活用した社会インフラのモニタリングサービスやAI画像の分析による交通量調査など最新技術の活用をはじめています。私の知る限り、非破壊検査でモノとインターネットをつなぐIoTを活用した他社の事例は、まだありません。
 事例がないということは、市場がないということでもあります。そういうものがあるということをみんなが知らない状態なので、事業を軌道に乗せるのは簡単ではありません。
 他方、アイペックにもIoT分野を大学で専門的に学んだ人や大手企業で働いていた人が入社してくれるようになってきました。非破壊検査のIoTは市場としては未成熟ですが、無限の可能性があると思っています。きっとこれからおもしろくなっていくでしょう。
 経営者の責任は、それぞれの社員が人生設計を実現するための環境をつくり、会社を存続させることだと私は考えています。考え方もやっていることも変えずに、会社を存続させるのは難しいでしょう。むしろ、変わるから続けられるのです。私もこれまでお伝えしたように、変わり続けてきました。事業を続けるためには、まず経営者が変わらなくてはなりません。
 これから先の世の中がどうなっていくのかをとらえながら、どうすれば社員の幸せと社会への貢献を実現できるかを考える。
 人にあまり期待しないとお話した私ですが、これからの若い人には、変化を恐れずしなやかに、自分なりのやり方で新しい時代を築いていってもらいたいと願っています。

 

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