セリタ建設が取り組みを始めたのはまだ、「DX」や「デジタルマーケティング」といった言葉が 存在していない約15 年も前のことです。
当初、私たちはツールを自分たちが使いやすいようにカスタマイズしましたが、うまくいきません でした。そこから長い時間をかけて試行錯誤を繰り返しました。
そして、結論めいたものにたどりつきました。
うまくDX化するには、ツールを自分たちに合わせるのではなく、仕事のスタイルをツールに合わ せて変えていかなければならないということです。DXに必要なのは、ツールを導入することではなく、 社員一人ひとりが仕事に向き合う考え方を変えることなのです。
セリタ建設でも、ツールを導入して仕事や働き方を変え、社内の考え方や空気が変わるまでは、 長い時間がかかりました。
私は経営者が書いた本を読むことが多いのですが、 多くの場合、経営者の話はきれいなストーリーになって いることが多いと感じます。そうした話を読めば、「やっぱり自分とは違う」「あの人だからできたんで しょ」と思ってしまいがちです。
でも、ひと握りの天才か強運の持ち主を除いて、たった 一度の挑戦でうまくいく人などいません。誰もが人 知れず試行錯誤を繰り返しているものです。
私たちは何に失敗したのか。
その失敗を乗り越えるために何をどのように考え、 行動したのか。
そうしたことを包み隠さずお伝えしていきます。まだまだ改革途中のセリタ建設だからこそ伝え られることがある。
そう考えて、筆をとりました。まさか、自分の会社が債務超過とは… 1973(昭和48)年に、私は佐賀県杵島郡大町町で生まれました。
セリタ建設は父が起こした有限会社セリタクレーンが前身で、地盤改良を中心とする総合土木 工事業の会社です。河川沿いに低い平地が広がる武雄市周辺は昔から洪水被害が起こる地域として 知られています。有明粘土層でできた軟らかい地盤の上にあることから、地域にとって地盤改良は 大きなテーマでした。
大学進学とともに地元を離れ、関東の ゼネコンで働いていた私が武雄にUターン したのは30 歳になったころです。1 級土 木施工管理技士の資格を取得したのを機 に、事業承継のためセリタ建設に入社しま した。
1 年目は環境の変化に慣れるだけで精 いっぱいでしたが、2年目を迎えるころには 「何かがおかしい」と感じ始めていました。 売上高は数億円あったにもかかわらず、 手元に残るのはわずか数百万円。おまけに 債務超過の状態が続いていたのですから。
このような状況が生まれたのは、公共工事を請け負う業界特有の事情があります。 公共工事の入札に参加する建設事業者は、建設業許可を取得するのはもちろんのこと、営業所の 設置や常勤の専任技術者、建機・有資格者の数、財務状況の健全性など、さまざまな条件をクリア しなければなりません。こうした条件を満たすために無理して投資を続けていたセリタ建設の台所 は火の車でした。調べてみると、帳簿上の数字と実際の資金繰りに大きなズレが生じていました。
なぜこうなってしまったのか。
大きな要因は、社内の職人の知識や技術のクオリティーが人によってばらばらだったことです。 能力や経験は人によって違いますが、会社としては常に一定の水準を担保できなくてはなりません。 職人を統率する人もいませんでした。当時の会社の状況をたとえるなら、小学校の教室に近かった かもしれません。教室には数十人の児童がいるのに、明確な目的や指揮命令系統があるわけでは なく、目立つ人や声が大きい人の言うことに全体がなんとなく流れていく。そんな状態でした。
突き刺さった友人の言葉
そんなとき、忘れられない出来事がありました。 地元を離れていた高校時代の友人と久しぶりに会う機会がありました。その彼は思い詰めた様子 で、「俺、地元に戻らなくちゃいけなくなったんだ」と言いだしたのです。有名自動車メーカーに勤め ていた彼はさらにこう続けました。 「でも、地方には働きがいのある会社がないからな」 この言葉が私に刺さりました。
何の問題もないと思っていた父の会社は問題を抱えている、それなのにどう克服したらいいのか、 どう取り組むべきか思い至っていない自分……。自分が勤める会社だけでなく地方の会社に共通する 課題を突きつけられたような気がしました。
「どうすれば地方で働きがいのある会社をつくれるのだろう」
私の心の奥深くに友人の言葉が根を下ろしました。
私が行動を起こしたのは、2009 年のことです。その年8 月の衆議院選挙で政権をとった民主党 (当時)は公共工事を減らす施策をとります。公共工事の比重が大きかったセリタ建設は業績悪化が 避けられない状況に追い込まれることになりました。人任せにしていられないと考えた私は、工事部 から営業部に異動し、営業を担うことにしました。
結果は散々でした。
父の紹介で取引先の一つに挨拶に行ったときのことです。長年地元で社長をしていた父の紹介です から、名刺交換はしてもらえました。でも、それが終わるとすぐ「ご苦労さま。出口はあっちだから」と 裏口を案内されました。名刺交換は形式的なものだということは明らかです。
別の営業先では、渡したばかりの名刺がなおざりに投げ捨ててあるのを見つけたこともありました。 自分の名刺が足元に落ちているのはわかっていても、怒りと情けなさで拾い上げることもできません でした。
悔しいのは言うまでもありません。しかし同時に、セリタ建設はそのような扱いを受けるレベルの 会社なんだ、とも思いました。セリタ建設に魅力がないから、ぞんざいに扱われてしまうのです。
こちらがお願いをするのではない。セリタ建設と仕事したいと取引先に思ってもらうんだ。そんな 状態をつくっていかなくてはいけない──。
そう感じたとき、高校時代の友人の言葉がよみがえりました。 「地方には働きがいのある会社がないからな」
ないなら、つくろう。
そのときから、武雄に働きがいのある会社をつくることが私のミッションになったのです。