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「事実上の倒産」を乗り越えた今も、
心の糧になる よい音楽をすべての人々へ届けたい

新堀ギターグループ(学校法人新堀学園)

1957年に新堀ギター音楽院が設立。ギターオーケストラを世界で初めて結成し、新堀メソードを考案し発表した。現在は、新堀氏が手掛ける学校法人新堀学園のほか、新堀ギター音楽院(株式会社新堀ギターアカデミー)などの運営を行う。


創設者 新堀 寛己

1934年生まれ。首席指揮者として各国で行った「音楽を通しての平和活動」が認められ、国連NGOなどから表彰。2007年にはローマ法王からも祝福表彰される。

オーケストラ好きの少年が、戦時中の集団疎開で経験したこと

 

 みなさん、これまでの生活のどこかで「新堀ギター」のブリキの看板をご覧になったことがあるのではないでしょうか。印象的な、日本中の至る所にある、あの看板のギター教室を主宰しているのが私です。
 
 そん
な私が現在やっている仕事は、大きく分けて3つあります。
 1つ目は、国が認可した学校法人 新堀
学園ですね。こちらは高等学校課程、大学課程、専門学校を経営。私は理事長を務めています。
 2つ目は新堀ギター音楽院を経営する、株式会社新堀ギターアカデミーです。事業に関しては、先ほどからお伝えしている音楽教室関係です。
 3つ目は、私個人が作家やタレントとして活動する個人経営です。こちらでは教室を運営するためのビルの購入や修繕など、不動産に関わることも行っています。
 学校法人、株式会社、個人経営、それぞれの特徴があり長所短所もありますが、最終的にこのスタイルが心地いいと感じています。
 なぜこのスタイルに落ち着いたのか。普通なら私が生徒に教えるだけの「ギター教室」になってしまうところ、全国、そして海外にも教室を持つ事業に成長したのか。その経緯をお話していきますが、その根っこにある思いというのは、結局、最初から最後まで、さまざまな音域の楽器で構成されたオーケストラを作り、みんなで合奏するのが好きなんです。次の世代なってもオーケストラを立派に維持していくためのシステムを考え続け、今に至ります。

オーケストラに興味を持ったのは1944年(昭和19年)、小学校4年生のときです。当時私は、杉並区の小学校に通っていましたが、戦争のため同小学校の4年生の多くは、宮城県に疎開することになりました。
 東京都杉並区からはるばる宮城県に到着したものの、行き違いがあったのか当初疎開予定だった熊野神社には、生徒全員分の受け入れ体制は整っていませんでした。泊まれる設備が不足していたのです。そこで疎開した子どもたちの中で、とくに元気な男子23人が選ばれ、山奥の文教場に連れて行かれました。バスなんてないところですから、米や稲などの運搬に使われていた大八車に乗せられて、ガタガタと移動したわけです。
 夜は床に寝るから眠れなくて、親に頼んで畳を敷いてもらって、そこに男子23人が住むことになりました。
 日中は、通常なら授業をやらなきゃいけないのに、2人の先生は食料の買い出しで留守にしたり、空襲があったりで、みんな放ったらかし状態。そんなわけで、子ども同士が集まれば、私はハーモニカが好きだったからハーモニカを吹いて、他にもギターやマンダリンを持っていた子がいたので楽器の演奏が始まるわけです。
 私は小学校に入ったころから、古賀ギター歌謡学院に通っていました。同学院は、歌手・藤山一郎さんの初期のヒット曲『酒は涙か溜息か』など複数の有名な楽曲を手掛けた、有名作曲家・古賀政男さんのギター教室です。子どもの頃から音楽に親しんできた私は、小学校の頃には楽譜が作れるようになっていました。
 楽譜を書いてみんなで演奏すると、これがおもしろい。やっていて音が足りないからどうしようと思ったら、壊れたハーモニカをヤスリで磨いて音を足していく。こうして、だんだんと独奏よりも、みんなで合わせるのが楽しくなっていきました。
 空襲警報が鳴れば、みんな防空壕の中に入るわけでしょう。それは地獄ですよ。しばらくして、敵が行ったらみんながワーっと外に出る。太陽や山々がきれいで、平和はすばらしいというのを体験したんです。この地獄と平和を体験しなかったら、平和を作るのにみんなでやれること、「合奏」のすばらしさに気づけなかったと思います。
 だから他のみんなが「兵隊さんになる」と言っていた時代から音楽
っていいなと感じ、音楽家になりたいと思っていました。
 戦争などで中断していた時期もありましたが、中学生から再度、古賀ギター歌謡学院に通いギターを再開しました。

 

「夢は音楽家」も、「堅い職業」を勧める父親と衝突

 

 もちろん将来の夢は、音楽家です。
 しかし父の願いは違いました。商業高等学校卒業後は、大学などには行かずに働きにでてほしかったようです。父の願いはむなしく、当の私は商業高等学校に行っても音楽三昧。
 高校2年で「赤ずきん」や「白雪姫」などのオペレッタを上演しました。それが校長先生の目に留まり、音楽部の発表会としてやったつもりが、「すばらしいから聴いてほしい」と賞賛され、スピーカーで全校放送されたのです。近所の学校の人からも話題となり、プロになろうという思いがさらに強くなりました。
 いよいよ、進学先を決める時期になりました。
 父に、大学に行きたいと伝えます。当時は音楽家なんて食べていけない、銀行員や役人のような堅い仕事が安心という時代です。
「おまえは物乞いになる気か!」
と猛反対を受けました。それでもどうしても音楽をやりたかったので「バイトするから」と懇願し、学校の先生になることを条件に大学進学の許可がでました。本当は音楽大学に進みたかったのですが、それも反対され、バッハなどについても学べる青山学院大学神学部を選びました。
 大学に行くころには、古賀ギター歌謡学院の師匠である、古賀政男先生の仕事をお手伝いするようになっていました。1953年(昭和28年)8月28日には、日本初の民間放送局の日本テレビが開局。この日、私たちは日本テレビのスタジオに呼ばれ、開局を伝えるアナウンスと共に流れる音楽を、古賀先生の指揮のもと演奏しました。大学時代はほぼ音楽の仕事だけで、普通の会社員の約3倍は稼いでいたんじゃないでしょうか。といっても稼ぐのが目的ではなくて、いろいろな先生につき、よい点を吸収したいという思いが強くありました。
 大学時代のギターは、一般的に独奏が中心でした。私はやっぱり合奏が好きなんです。ギターで合奏がしたい、でもギターで合奏をするにはギターの音は低いため、もう少し高い音が必要です。そんな楽器はないわけですよ。開発する費用もないから、家の前の青果店からリンゴの空き箱を買ってきて、そこにネジ釘をさして糸を張り、手製のギターを製作しました。
 私はこうして大学時代から、低音、中音、高音の各音域に対応するギターを開発し、ギターの合奏を始めたのです。
 楽器にはチェロやヴィオラなど、さまざまな音域の楽器があって、すべてすてきな音を奏でます。しかしバイオリニストはチェロを弾けません。同じコードでも弾き方が違うので、いちから覚え直さないといけないためです。
 でも一度習ったテクニックで音域の違う楽器がすべて弾けたら、すぐに合奏ができるじゃないですか。そのために私は、ソプラノギターやアルトギターを作ったうえ、楽譜をいじって、誰でもギターの合奏をしやすくしたのです。現在の新堀メソードの原型は、大学3、4年生のころにはほぼ完成に近い状態になっていました。
 楽譜をいじるわけですから、「何をやっているんだ」「音楽の歴史を壊す気か」と多くの人に反対されましたね。
 こうしてギターの合奏をやりたいと本気で取り組んでいただけなのに、頭から否定され、認めてもらえない日々が始まったのです。

4畳半のバラック小屋からスタート

 大学を卒業後、高校教師をしながら1957年(昭和32年)に、新堀ギター音楽院を設立しました。 
 創業の地は、東京都杉並区阿佐ヶ谷の自宅で、4畳半のバラック小屋です。
 名前は、当時一般的だった「ギター教室」や「ギター教習所」などではなく「新堀ギター音楽院」にしました。
 ギターは古代メソポタミアから続く歴史がある楽器です。ピアノの歴史は約300年、ギターは約6000年。メソポタミアからずっと人類の胸に抱かれ演奏されてきた、その長い歴史を学ぶ音楽院という意味でつけました。教室の規模感ではなく、何をやるかで名称を考えたのです。ただみんなに「古代メソポタミアの〜」なんて話をすると、頭がおかしくなったんじゃないかと心配されるわけです。
 ギターについて勉強すればするほど、他の人と乖離していく。そ
れが本当につらかったです。
 そんな思いを抱えつつ新堀ギター音楽院は、3人のメンバーでスタートしました。

 

新堀ギターの「あの看板」はどう作られたか

 

 まずは教室の存在を知ってもらうため、看板作りです。外注する資金がもったいないので、仕方なく私が筆を取りました。そのときは、作っては見たものの、あまりパッとしないものでしたね。
 しかし、日本で初めてシネマスコープ映画を上映したテアトル東京に行ったら、その迫力に驚きましてね、自宅に帰ってシネマスコープ映画のタイトルみたいに影をつけて「新堀ギター」と書いてみたんです。そうしたら、しっくりくる。
 それが今の看板の原点です。
 現在のようにSNSを駆使して、集客ができる時代ではありません。最初の頃は人が集まらないから、看板に「東京ギター」とか、「Niibori」の文字を入れるなど、いろいろ試行錯誤しました。でも、なかなか人は集まらない。
 そこで新堀ギター音楽院のコンセプトである「心の糧になるよい音楽をすべての人々へ」と入れたところ、これが響いたのでしょう、徐々に人が集まってきました。
 このコンセプトは、私が創立のときに作ったものです。音楽の道を志した当時は「あきらめましょう」というような歌詞の、人の希望を台無しにする歌が流行っていました。私はもっと音楽が心の糧になるような、心に宿り、人を心地いい気持ちにさせる音楽を作りたい。そしてお金持ちだけではなく、誰もが楽しめるものにしたいと思い創業しました。このコンセプトは、創業時から今もずっと変わらずに私や弟子たちの胸にあります。
 そんな思いを抱え、始めた音楽院。
 最初は生徒0名からのスタートでしたが、半年後には6名、2年後には生徒数150名になり、杉並区にある音楽教室で1番多い生徒数になっていました。急成長したことで注目され、新聞にも取り上げられましたね。
 

弟子も「プロの音楽家」として生活できるシステムづくり


 短期間で教室を拡大できたのには、理由があります。低・中・高音の各音域に対応するギターで構成された「オーケストラ」を潰さないためのシステム作りを徹底的に行ったのです。「音楽では、食べていけない」
 相変わらず、世間からはそう思われていました。私はそれを変えて
、継続して合奏ができる環境を作りたかったのです。そのためオーケストラが生活苦のために潰れずに済むように、弟子たちに教室を作ったわけです。人を教えることで生活の保証をし、他の職業に就かなくてもプロの音楽家として活動ができる道を築きました。
「自分の人生があるんだから、人のために教室を作っていないで自分の技術を磨け」
 人からは、そう言われたこともありました。
 しかし、それではオーケストラは維持できません。
 信頼している先生は「オーケストラなんて何度もやれるものではない。国の援助がなければやれないものだ」と言います。
 それでは小さい頃からオーケストラを夢見てきた、私の願いはどうなってしまうのでしょう。私が夢を叶えるために行動をおこすごとに、信頼している先生との対話も途切れてしまうのは、私にとってとても悲しいことでした。
 しかし、夢を実現させるためです。
 合奏をやると同時に、教本を統一させました。同じ教本を使用することで、どこに引っ越しても続きから稽古ができるようにしたのです。しかも合奏はたのしいから、みんな辞めないわけです。そのため生徒総数は右肩上がり。今では台湾、ロンドン、ポーランドなど、海外にも広がっています。
 新堀ギター学院に行って頑張れば、もしかしたら自分の教室を持てるかもしれないという希望のある環境です。ただ演奏が認められるだけではなく、お給料がもらえて昇給もあります。関わる人たちには夢がある場を提供し、私の夢をも叶えていったわけです。
「心の糧になるよい音楽をすべての人々へ」を実現させるためには、オーケストラの維持が大切です。「オーケストラの維持」のために何をすべきか、で動いているのは、今も昔もいっこうに変わりません。

利益を出すことは必要、でもそれだけではダメ
 

 どんなに生徒数や教室数が増えても、世間のギターに対する目は以前と変わらず、不良のやるものであり異端でした。
そもそも本当は音大に進学して音楽家になりたかった私ですが、音大にも行かせてもらえず、大学で作ったギターの合奏は邪道と呼ばれ、楽譜なんていじるものではないと言われ続けてきました。今後もギターで生きようと思っているのに、頭からけなされ通しです。
 一方、音楽院の経営は、生徒数も増え順調です。「事業がよい状態ならば、世間の目は気にしなくていいのでは」と思う人もいるかもしれませんが、重要なのはお金ではないのです。もちろん経営が成り立ってこそオーケストラが維持できるので、利益を出す必要はあります。
しかし、それだけを追求していてはダメです。音楽家は自分の芸術がどう評価されるかも大切。同時に高いレベルに達すれば達するほど、一番のライバルは自分になります。自分の記録を超越し、その先に辿り着きたい。そして多くの人にその音楽を届けたいと思うようになるものです。
 日本で何をやっても認められないなら、世界の一流になろう。そう思い、目指したのは英国でした。音楽家として認められるため、英国・エリザベス女王陛下が運営するロンドンにあるコンサートホール「パーセル・ルーム」「アルバート・ホール」などのオーディションを受けに行くことにしたのです。
さまざまな国と地域で視聴可能なBBC(英国放送協会)があるロンドンには、世界各地から有名になるためアーティストが集まります。ロンドンで評価されれば、BBCの目に留まり国際的な音楽家として注目される可能性があります。
 当時は、日本といったら羽田空港を出たら人力車が走っていると思われているような時代です。英国からしたら馴染みがない日本のアーティストたちの演奏ですから、普通に演奏しても、まともに聴いてもらえるとは思えません。
 

オーケストラは社会の縮図


そこで日本人である強みを活かす作戦を考えました。
 他の演奏者では絶対にやらない、日本の音楽を着物で演奏することにしたのです。当時は今とは違い、日本の着物はあまり知られていない時代です。約4割、日本の曲を仕込んだ楽曲構成としました。
 英国行きの準備は、1年8カ月前から行いました。当時は今のような飛行機ではないため、英国まで40時間以上かかります。また以前海外に行った際に、日本人は「醬油中毒」があると思った経験がありました。まったく理由がわからなかったのですが、海外に行くと体がふらふらして、おせんべいを食べたら元気になったのです。お醤油不足で体がおかしくなったのかなと思いました。
 そこで英国出発前に、北海道の富良野で醬油抜き生活のトレーニング合宿を実施しました。醬油が切れても動じない体を作るために、絶対に醬油を口に入れずに過ごしたのです。英国と日本では食文化が違います。今のように日本料理がどこでもある時代ではないので、あえて何もない場所で合宿することで体を慣らしていきました。
 私たちは音楽家の集まりです。芸術家独特のこわだりを持つ人たちがたくさんいます。ときには衝突もします。本当にオーケストラは社会の縮図だと感じますね。人がたくさん集まれば、意見が合わない者も出てきます。とくにアーティストは我が強い人が多いので、たびたび問題は起きていましたが、みんな英国に行く目的があったので何とか乗り越えていけました。
 それよりも大変だったのが、国の援助が一切無いことでしたね。楽器を安全に運ぶためには、多大な手間とお金がかかります。とくに英国では、着物での演奏を考えていたので、衣装だけでも大荷物です。1人でギター2本と着物や着替えなどを入れてバッグを立てたら、大きすぎて身動きができなくなります。
そもそもギターと着物を持って移動できる既製バッグなんて、そんな都合のいいものはありません。存在しないなら作るしかない。道具作りも自分たちでやりました。英国に行ったと簡単に言いますが、曲・体・道具・資金、すべてを自分たちで作ったわけですから、本当に大変でしたよ。
 でも世界中の著名なギタリストの多くは、ロンドンを拠点に活動していました。そんなギターの本場で成功すれば、日本人も「ギターの合奏は異端」といった認識を改めてくれるはずです。期待を胸に挑んでいました。

「邪道」から「賞賛」へ
 

 いよいよオーディション当日です。緊張しつつも挑戦した結果、オーディションには見事合格し、私たちは英国で40日間の公演を行いました。「さくら さくら」などの日本の曲を披露するときは、8人の着物姿の女性が出て演奏するわけですよ。みんな驚いていましたね。
 そしてついに、BBCから電話がかかってきたんです。
 念願のBBCに、私たちのコンサートの様子が放送されました。英国のマスコミや音楽業界の方々は、大きさの異なるギターを使っての合奏に大絶賛。私たちのことを賛辞の言葉を込めて「ギターオーケストラ」と呼んでくれました。通常オーケストラとは、弦楽器、管楽器、打楽器などの違う楽器で構成された楽団のことです。低・中・高音の各音域に対応するギターで構成された私たちの楽団をオーケストラと認めてくれたのは、とても誇らしくうれしい出来事でした。
 それからですね、私たちも自分たちのことを「ギターオーケストラ」と表現するようになったのは。
 帰国後、しばらくして大きな変化がありました。日本中で新堀メソードが話題となり、NHKにも取り上げられたのです。もう誰もギターのオーケストラを「邪道」と呼ぶ人は、いなくなったのでした。

順調だったはずが……「事実上の倒産」の事態に
 

 創立30年目の1987年(昭和62年)。私は53歳となりましたので、そろそろ次の世代に継いでもらうため、全国の新堀グループを4つの会社に分社化しました。新しい各社長に財産を譲り、私は学校法人だけを担当するようになったのです。
 分社化する際、各会社の社長には2つの約束をお願いしました。1つ目は、私の財産を分けるけれど、これはみんなで稼いだ財産。どこの会社が倒れてもダメなので、何か困ったことがあってお金を借りるときは絶対に私に相談してほしいと伝えました。2つ目は、自分の会社を親族だけで固めてはいけないと伝えました。みんな了承してくれ、新しい体制が始まったのです。
 そのわずか18カ月後のことです。
 年末特有の忙しさを感じる、12月27日。一本の電話が入りました。
「先生、もうダメです。倒産です」
 分社化した会社のうちの1社である、東京にある株式会社日本ギターアカデミーを任せたA社長からでした。聞けば、地上げ詐欺集団に多額の金をだまし取られたといいます。
 報告を受けたときには既に、新堀家代々の土地の権利書を無断で持ち出され、白紙の約束手形まで地上げ屋に渡っている状況でした。
 なんでもA社長は、詐欺集団のメンバーとは知らず、ある人物に東京都杉並区高井戸にいい土地があると教えてもらい、土地を見に行ったそうです。ブルドーザーが作業しているところを見せられ「この土地は、すばらしい立地ですが、特別によい条件をだせる」と言われ、まんまと信じてしまったのでしょう。銀行からお金を借りて代金を支払ってしまいました。
 しかし実際は、他人の所有地を自分のもののように装い、ターゲットに不動産を購入させ代金をだまし取る詐欺師だったのです。しかもA社長は、無断で新堀家代々の土地の権利書を持ち出し、それを担保にお金を借りていました。
 なぜ、そんなことができたか。それは会社の金庫に、個人と会社名義の土地の権利書を保管していたためです。私もよくなかったのかもしれませんが、まさか自分の弟子が、個人所有の土地の権利書を勝手に持ち出してお金にかえるなんて想像していませんでした。返済は、自分の妻が所有する土地を売ったお金で支払うつもりだったそうです。結局うまくいかず、銀行取引停止処分となり、事実上、株式会社日本ギターアカデミーは倒産することになりました。
 これにより私は、先祖代々の土地を失っただけではなく、順調にいっていた音楽幼稚園も手放すことになりました。同音楽幼稚園は、先祖代々の個人所有地と法人名義の土地、両方にまたがって建てられていたため、存続が困難になってしまったのです。泣く泣く音楽幼稚園を手放すことになりました。

ヤクザから逃げ、ホテルを転々とする日々
 

 最初に、A社長から電話で話を聞いたときは、頭が真っ白になりました。
 真っ先に、離婚を覚悟しましたね。というのも2番目の妻は結婚前から「高齢でお金持ちの人を紹介してください」と言っていた、とんでもない女性です。
 でもよく考えたら、最初からお金目当ての人をもらえば、あとでゴチャゴチャ言われないだろうし、何より面白い人だなと思って興味がわきましてね。結局、結婚することになったという相手なのです。
 お金目当てで結婚した女性ですから、これまで一度もお金で心配させたことはありませんでした。それが突然、財産の大半を失うことになったわけです。
 100パーセント離婚だと思い、覚悟しました。
 しかも弁護士が
「白紙の約束手形がヤクザの手に渡っているはずです」
と言うから大変です。
 白紙の約束手形と言えば、金額が書いていない手形のこと。いくらでも金額が書けてしまうから、ヤクザの世界では脅迫をするのにもってこいの手段です。それがヤクザのところに出まわっていて、家族にも危害が及ぶかもしれないと言うのです。子どもや妻を誘拐して、お金を要求される可能性もあります。
 警察に相談しようとしたのですが、弁護士は警察には行かないほうがいいと言います。今となってはその弁護士も詐欺グループの一員だったとわかるのですが、当時は、そんなことを知るはずもありません。すっかり悪徳弁護士の言葉を信じていた私は、妻と子どもを秋田県にある妻の実家に避難させて、私は別の場所に身を潜めることにしたのです。
 有名ホテルチェーンの友人が手を貸してくれ、極秘で泊めてくれたのが幸いでした。
 その日から、隠れて暮らす日々が始まりました。有名ホテルで宿泊できたからといって、ゆっくりできるはずもありません。突然の出来事でしたから、やるべきことは山ほどありました。

「逃亡生活なんて、まっぴらごめんだ!」
 

 今の時代なら、メールやオンラインミーティングなど、多くの連絡手段がありますからホテルに籠もっていても仕事に支障はきたさないかもしれません。
 しかし当時は、インターネットなんて存在しない時代です。業務連絡を紙に書いては封筒に入れ、郵送で指示を出していました。郵送を出せば発信したことがバレてしまいます。発信したと同時にホテルをかえる日々です。
夜、車を運転していると、後ろからヤクザが追いかけてくるのではないかと思い、生きた心地はしませんでした。そんなストレスに満ちた日々が、約1カ月続いたのです。
 背後からの追跡はないか。神経を過敏にさせながら車の運転をしていたある日のこと。私は自宅の近くまでやってきました。自宅へ呼ばれるように、慣れているはずなのに懐かしい道を夢中で運転していました。
 ひさしぶりの自宅。
 車庫のシャッターを上げ車をとめて、玄関に向かいます。扉を開けるといつになく静寂です。リビングに一歩入った途端、動けなくなりました。
 ステンドグラスの隙間から太陽が燦々と注ぎ、まばゆい光が私を包みます。なんと美しいのでしょう。きらめく陽光で迎えてくれたこの家が、ここで紡いだ時間が、とても愛おしく感じました。
 こんなにあたたかい家があったのに、私は一体何をしていたのでしょう。そう思った途端、せき止めていた思いが溢れてきました。また逃亡生活に戻るなんてもう無理です。まっぴらご免です。自宅に戻りたい、ずっとこの光溢れる場所にいたい。
 私は、葉山警察署へ駆け込みました。
 悪徳弁護士には止められていましたが、全部、警察に語りました。すると警察の方は
「あなたは被害者です。今までの事情は話を聞いて全部わかりました。ご家族にも警備をつけますから」
と言ってくれたのです。心の底から安堵しました。
 その後、パトカーが1日2回もパトロールにきてくれるようになり、やっと逃亡生活から解放されました。

小さなビルを借りて再出発
 

 株式会社日本ギターアカデミーが倒産したことで、9700名いた生徒のほとんどを失いました。ギター教室は辞めて、教師に戻ろうか……と頭によぎりました。
 「もう1回やりましょう」
 そう言ってくれたのは、私の弟子でした。
 再出発の地に選んだのは、妻の姉が住んでいた街「洋光台」です。光を感じる夢のある町名に惚れ、駅近くにあるビルの2階を借りることに。ビルは町名同様に明るく、心地のいい雰囲気です。すっかり気に入った私は、この地で再出発をしていこうと決めました。
 そんな私を、もっとも支えてくれたのは妻でした。
 お金目当てで結婚したのだから、お金の切れ目が縁の切れ目。大半の財産を失った人間には、もう用はないと覚悟をしていました。しかし妻は、離婚せずについてきてくれました。再出発のときも、再建に一緒に尽力してくれたのも妻でした。彼女はもともとギタリストで、私と同様に音楽を愛する人間です。
「あの人は絶対に再出発できると思うから、ついて行っているんだ」
 妻がそう言っていたと、スタッフがこっそり教えてくれました。
 夫婦なんて直接は何も言わないものです。でもそうやって思っていてくれ、どん底のときも私を支えてくれた妻。2年前にガンで亡くなってしまいましたが、今でも彼女には本当に頭が上がらないですね。

これまでの経験が財産に……ゼロからの復活
 

 そんな妻の頑張りもあって、生徒は順調に増えていきました。最初は2階部分だけだった教室はたちまち3階も借りることになり、それでも足りず1階も借りて、まだ足りずにビル全体を借りてと、すごい勢いで生徒が増えていきました。
 倒産した先祖代々の土地でやっていた頃は、駅から遠い場所にありました。洋光台の教室は、駅の近くにあったのがよかったのかもしれません。でも何よりも、妻をはじめ弟子たちも一緒になって、死に物狂いで働いてくれたお陰だと感じています。
 同時に、乗り越えられたのは無名時代があったからです。あのころは、音楽家への夢の前に、大きな壁が立ちはだかっていました。私にとって一番つらい、どん底の時期です。
 何をやっても反対されるなか、新堀ギター音楽院のコンセプトである「心の糧になるよい音楽をすべての人々へ」を胸に、誰もが音楽を楽しめるように新堀メソードを完成させ、ギターを開発し、それを人に伝えてオーケストラを作っていきました。その甲斐あり海外オーディションに挑み成功するまでになったのです。そうやって一つ一つ困難にもくじけずに進めてきたからこそ、多くの人が音楽を楽しめるためのノウハウが蓄積されたのです。
 歯を食いしばって0から作り上げてきた基盤とブランド力がついたあとに訪れた、今回の倒産。倒産の話を聞いた当初は、身を隠す必要もありストレスの溜まる日々でした。しかし「再出発」を決めてからは進むべき道は、くっきりと見えていました。以前のように、どんどんオーケストラの団員を増やしていけば、収入が増えていくことは経験からわかっていましたから。
 ですから、あの一番つらかった、誰にも認められずにもがいていた無名時代があったからこそ、倒産も乗り越えられたのだと思います。だからもし明日また倒産事件が起こったとしても、私のことを信じてついてきてくれる人もいますし、苦労して作った新堀メソードもあります。
これまで培ってきた、人を育てる方法や楽譜や楽器に関するノウハウもあります。新堀メソードを使ってギターを楽しむ人たちが、世界中にいます。私個人のことなんて知らなくても、海外の子どもたちも新堀メソードを学ぶことでギターを弾けているんです。きっちりとした新堀メソードがあるからです。
 シンガポールの子どもたちなんて「新堀」は地名と思っているみたいですよ。それでも、統一されたシステムがあれば、どこにいたって音楽が楽しめるのです。
 ふたたび倒産事件のようなことが起こったとしても、私には信じてくれる人や新堀メソードという財産があります。何度でも這い上がれるでしょう。

まだまだ尽きぬ、今後の夢
 

 冒頭でもお伝えした通り、私は現在、新堀学園の理事長をしています。学校法人を運営する中で、大きな問題点を感じるようになりました。
 日本の教育問題です。
 多くの子どもたちは今、いじめや自殺、不登校など、さまざまな悩みに直面しています。文部科学省がおこなった全国調査によると、先生は全国で2000人以上も不足しています。2023年には、教育職員の精神疾患による病気休職者数が、過去最高の6539人になりました。3人に1人は精神的な問題を抱えていると言われています。
 かたや同年に文部科学省が発表した不登校の児童数は、過去最多の29万人。これは学校法人を運営している私からすると、本当に問題のある数値です。
 同時に今の日本は、楽器の選び方ひとつで将来の道が閉ざされてしまう、という現実もあります。学校の音楽の先生になるための一般的な手段は、大学・短期大学などで法令で定められた科目や単位を修得して教員免許(教育職員免許状)を取得する方法です。音楽の先生になるためには、ピアノができることが条件です。
 音楽の先生になりたい子どもが、ギターを選んだら今の日本では最後。先生になれないのです。
 そのため仕方なく、ギターとは別にピアノを習う必要があります。その子が、ギターもピアノも楽しめればいいですが、全員が同じようにピアノに興味を示すわけではありません。音楽の長い歴史を考えても、ピアノは音楽の歴史の中でいえば、最近できた楽器の1つ。ギターはもっともっと長い歴史があるのです。でもピアノが弾けないと、音楽の先生にはなれない現実があるのです。
 ですから私の今後の夢は、当学校で教員免許を取得できるようにしたいと思っています。生徒にとってもいい環境になります。音楽の先生がギターを持って弾きだすと、みんなが集まってきます。生徒が集まっている場所に混ざって演奏しても楽しいですよね。もちろん天気のいい日には、屋外で授業もできるわけです。
 実際に、私も7年間、中学・高校の先生をしていました。たびたび生徒を多摩川に連れて行き、授業をしていました。心地いいですよ、屋外で授業をするのは。
 そういう自由に楽しめるのが、ギターのよさなんです。
 不登校気味で、先生とは口を利かない子でも、ギターを始めたら考えられないくらい変わる子どもを見てきました。無口だった子どもも、きちんと「はい」と言えるようになりますし、時間を守るようにもなります。いつも遅刻ばかりする生徒に、毎回「時間を守りなさい」と叱ってばかりでは、互いに疲れてしまうでしょう。でもギターの合奏をしていれば、出だしが狂えばすぐにわかりますからね。呼吸をあわせて演奏できるようになります。自然と時間を守ることの大切さがわかっていき、自主的に時間を守れるようになるんです。
だからこそ、ピアノだけではなくギターでも教員免許が取れるように尽力していきたいと思っています。

起業家こそ、夢を持とう
 

 この本を読んでいる人のなかには「今の自分を変えたい」「会社をもっとよくしたい」と思っているけれど、うまくいかずに悩んでいる人もいるかもしれません。
 そういう方は、しっかりとした「夢を持つ」と変われます。
 夢がないから毎日、生甲斐を感じられないのです。社長に夢がないから、社員に夢を持たせることもできないのです。社員に夢を見させられないから、社長もふらついて自信を無くして失敗してしまうわけです。
 ここでいう夢は、個人の夢ではありません。夢は社会もみんなもにっこりするものじゃなくてはいけません。
 夢が決まったら夢を実現させるためには、どういう人事でお金の使い方はどうすればいいかを考えます。私が再出発の地を洋光台駅すぐのビルにしたように、どこの駅のどのビルが一番夢を実現しやすいか、というのを基準して考えていけばいいのです。
 私たちの会社では、創業時から大切にしているコンセプト「心の糧になるよい音楽をすべての人々へ」のほかに、1年ごとに変わる標語を作っています。
 1年の標語の原案は、前年の8月に私が頭を捻りながら考えます。それをもとにみんなで話し合い、ブラッシュアップして1年の標語である、その年の「夢」を作っていきます。
 2024年の夢は「癒やす心を育もう」です。
 夢が決まったら、実現する方法を考えます。具体的には、癒やす心をどうやって育んでいくか、それにはどういう合奏団を作ったらよいのか。年齢はどれくらいで衣装曲目、順番はどうしたらいいか。どういうところに交渉するべきか。夢を明確にすることで、すべての方向性が決まっていくわけです。
 ちなみに2023年の標語は戦争を意識して「心に太陽を」でしたから、「心に太陽を、世界に平和を」と題し、ポーランドでの演奏会を実施しました。昔からポーランドは周辺国の人々が集まる場所です。同国での演奏会は6年連続で開催していました。しかし戦争が始まったことで、2023年の開催は悩みましたが、実施することにしたのです。
ロシアが侵攻するまでは、演奏会を開催するたびにモスクワやウクライナ、ハンガリーの人たちも来てくれていました。お客さんの層は変わりましたが、演奏が終わったあとの大きな拍手だけで、私たちの思いが届いたのを感じて心が震えました。
 

きちんとした夢を描ける会社は残る
 

 漠然と夢といっても、自分の夢、家庭の夢など大小さまざまです。起業家は、きちんとした夢を持って行動に移さないと、高い確率で失敗します。毎年、多くの企業が生まれていますが、その中で残るのはほんの一握りです。しかし、しっかりとした夢があれば、その時代に合った夢を叶えるための最良の選択ができるはずです。ですから、きちんとした夢が描ける会社は生き残っていけるわけです。

脳がよろこぶ、コクのある生き方
 

 どんなに仕事ができても、健康でなくては仕事を続けられません。たとえば時間を守ることは、学生から社会人まで人づきあいをする上での基本中の基本です。時間を守るというのも健康と密接に関わってきます。体内時計が整っている人は、朝しっかりと目覚められ、時間に余裕を持って過ごせます。午前中の時間を効率的に使えるかは、経営者にとって重要で、朝から動けるリーダーと、朝が苦手なリーダーでは会社の未来は変わってくるはずです。
朝から行動できる体内時計の整った人は健康ですから、長く動けるでしょう。体内時計の狂ったリーダーの場合、年齢を重ねればいずれ疾患だらけになり、重要な時間も病院に行かなくてはいけなくなります。どんどん健康なリーダーとの差が生まれます。
 しかし多くの人は、健康を勘違いしているんです。
 健康というと、肉体的によい状態であることが頭に浮かぶと思います。違うのです。大切なのは脳なのです。体を管理して動かすのは、肉体的な健康以上に脳が重要です。たとえば実年齢より若く見せたいと思った場合、多くの人はおしゃれから始めようとします。雑誌などでもメイクやファッションのことばかり触れて、脳のことは触れません。若く見せたいなら脳がよろこぶ、しあわせを感じることの繰り返しをしたほうが、健康でいられるんです。健康でいられる人は、結果的に若く見えます。
 おしゃれをしよう、と思っても続かない人も多いでしょう。それは当たり前です。おしゃれをすることだけを考えていたら、面倒になってしまいます。それは1つの作業でしかないので退屈なのです。
 でも夢の実現のために、おしゃれがどう結びついていくか考え、「脳がよろこぶには?」と思うと、気持ちもラクになり続けやすくなります。逆に脳が苦しむことは、なるべくしちゃいけないね、と言動までも変わってくるはずです。
 要するに「生きるって、楽しい!」と思える時間が増えていくわけです。私はそれを「コク」と表現しています。よく講演会や著作などで「コクのある生き方をしましょう」とお伝えしているのですが、それは「脳がよろこぶには?」と考えて行動することなんですね。
 そう考えて生きていくことで、これまで何かを続けられなかった人も継続できるようになると思います。
 夢を持って、コクのある生き方をしていけば、ビジネスにもいい効果があり、しあわせな日々を送れるはずです。そこに音楽があれば、さらに心も満たされるのではないでしょうか。

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