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「好き」で日本を元気にする

若い女性を中心に大ブームを巻き起こした「パンとエスプレッソと」「フツウニフルウツ」などのブランドを多数立ち上げる。2023年現在、インスタグラムのフォロワー総数は、直営店だけで14万人以上。


代表取締役社長 山本 拓三
1977年生まれ。大学卒業後、商社、不動産会社を経て独立。大赤字のベーカリーを買い取り、行列のできる人気カフェに育て上げた。
 

高級食パンブームの先駆けだった
 

「うちのパンは、絶対に売れる」

 そう信じていたからこそ、たとえ毎月100万円以上の赤字が出ていても、突き進んでこられたのだと思います。

 日本で「高級食パン」ブームが起きて、久しいですね。高級食パンとは、耳までしっとりやわらかく、とろけるような甘みと口どけが特徴の、少しリッチな食パンです。「乃が美」や「銀座に志かわ」など、一度は目にしたことがある方もいるかもしれません。高級食パンは、2013年にセブン-イレブンが発売した「金の食パン」が火付け役と言われています。
 実は、その前から販売していたの
が、「株式会社日と々と」のカフェ「パンとエスプレッソと」で取り扱っている「ムー」という食パンです。ムーはフランス語で「やわらかい」を意味します。
 ムーは当社のパン職人、櫻井正二が材料の配合を間違ったことがきっかけで誕生しました。そのため、通常のパンと比較して、とんでもない量のバターが含まれています。それが、手に取るだけで潰れてしまいそうなふんわりした仕上がりと、独特のもちもち食感、バターの香りが後を引く、芳醇な味わいを生み出しています。現在は、当社の看板商品の一つです。
 いまでこそ、水分量を多く含んだ食パンはたくさんあります。でも、当店のムーは2009年から販売を始めているので、草分け的な存在だったのかな、というふうに思っています。
 そんなムーをひと晩、卵液に浸し、パン用のオーブンでじっくり焼き上げる「鉄板フレンチトースト」も人気商品です。ムーはとてもきめが細かいので、時間をかけないと卵液が染み込みません。時間をかけて味を浸透させることで、外はカリッと、中はとろとろのカスタードクリームのような状態になります。
 15時から提供を開始しているのですが、スタート前からたくさんのお客様で行列ができてしまうことがあります。このフレンチトーストがヒットしたとき、店舗によっては、整理券を配布していました。ところが、お客様がつめかけ、15時前には券がなくなってしまうこともしょっちゅうでした。
 当社は、特に女性のお客様に多くご利用いただいています。インスタグラムで「#パンとエスプレッソと」を検索すると、2023年現在で、14万件以上の写真が投稿されています。フレンチトーストと、自家焙煎しているコーヒー
を一緒に写真に撮って、インスタグラムに上げてくださるお客様もいらっしゃいます。
 ありがたいことに、テレビや雑誌など、さまざまなメディアにも取り上げられています。京都・嵐山にある店舗では、紅葉などのハイシーズン時は、パンとコーヒーだけで2000万円を売り上げる月もあり
ます。

安泰なサラリーマン生活から1億円の借金


 現在ではたくさんの方にお越しいただけるようになったパンとエスプレッソとですが、当初は本当に大赤字続きの、超不採算事業でした。
 もともと、私は不動産会社で働いていました。その会社では飲食事業も手がけていて、パンとエスプレッソとの前身となるベーカリーも、その一つでした。
 そのころから、ずうっと赤字が続いていたんです。本業の不動産業では利益が出ていたので、それで補填しながらベーカリーの運営を続けていました。
 とは言うものの、会社として、その状況を放置するわけにはいきません。僕は当時、経理部門の責任者でした。事業を撤退させるかどうかの判断をするのも、僕の仕事でした。これ以上赤字を出し続けるわけにもいかないので、あるとき、そのベーカリーを閉店しようと思ったんです。
 けれども、僕はそのころ大阪にいたので、それまでそのベーカリーのパンを食べたことはありませんでした。味を知らないのに、一方的に「もう店を閉めろ」と言うものどうかと思い、一度、礼儀として東京にパンを食べに行ったんです。これが、ムーの生みの親、櫻井と出会うきっかけでした。
 で、そのパンがびっくりするくらいおいしかった。僕はパン職人でも、ものすごく食通というわけでもないのですが、パンの歯切れのよさ、噛むほどに広がる味わいは、これまで体験したことのないものでした。「これ、場所が合っていないだけで、認知さえ広がれば売れるんじゃないの?」。そう思ったんです。
 このできごとがきっかけで、その後、しばらく店を存続させますが、結局、経営は上向かず、ベーカリーは閉店となりました。3000万円かけてリースした製パン用機材など、借金だけが残ってしまいました。
 お金は返さなくちゃいけないし、働いていた従業員だって職を失うことになります。そこで、いったん東京の表参道付近に新しいコンセプトのカフェをオープンさせることにしました。たまたま、自社の東京オフィスの1階が空いていたんです。2009年、パンとエスプレッソとの始まりです。
 結論を言うと、パンとエスプレッソと1号店はうまくいきませんでした。でも、再起動までして、解散するのも無責任です。「うちのパンは、絶対売れる」と信じて、僕が外食事業を買い取る形で、会社から独立しました。30代にして、1億円の借金を背負うことになりました。
赤字から一転、人気店に
 基本的に、僕はメニュー開発や店舗で使う食器など、お店の個性になるところはそこで働くスタッフに任せています。あまり口出しせず、自由に運営してもらったほうが、スタッフのモチベーションも上がりますし、よいアイデアも出ます。スタッフそれぞれが「自分ごと化」できるので、お店の状態もよくなると考えています。
 だから、パンとエスプレッソと1号店に対しても、メニューのことは口出ししていませんでした。でも、ずっと赤字が続くとなると、話は別です。2009年のオープン当初、パンとエスプレッソとは毎月の赤字が100万円ほどありましたし、月によっては200万円を超えることもありました。このままじゃ、さすがにまずい。
 そのころ、パンとエスプレッソとは、パンだけでなくスープやサラダなどの惣菜を取り扱っていました。夜も遅くまで営業していて「ベーカリー&バール」という側面がありました。
 メニュー数が多ければ、仕込みにも時間がかかりますし、食材のロスも出やすくなります。そのため、惣菜類はすべて廃止し、メニューもパンだけに絞ってもらいました。夜の営業も、取りやめました。赤字が続くと、好きなことをする以前に、そもそもお店を存続できませんから。
 その後、経営は少しずつ回復したものの、2011年に東日本大震災が起きました。独立する際に一緒に買い取っていた大阪のお店は黒字化していたものの、東京の店舗は震災の影響を受け、まだまだマイナスでした。毎月の赤字は、50万〜100万円の間を推移していました。このころ、僕はずっと無給で働いていました。
 赤字を補えるほどではありませんでしたが、看板商品のムーはそのときからよく売れていました。起死回生をねらって、ワゴン車にムーを大量に積みこみ、移動販売をすることもありました。ほとんど売れませんでしたが、とにかく、必死だったんです。

 このような中、パンとエスプレッソとの運命を変えるようなできごとがありました。2012年、伊勢丹新宿店での催事出店が決まったのです。
 1週間ほどの会期の催事には、たくさんのベーカリーが出店していました。その中でも、パンとエスプレッソとは初出店ということもあり、予想以上の売れ行きでした。
 ありがたいことに、初日から欠品商品が続出しました。そして、2日目には生産能力が追いつかなくなりました。
 そこで、3日目には、販売商品をムーに絞り、ムーだけをずらりと店頭に並べました。図らずして“専門店”のようになってしまった形ですが、当時はそのようなお店はめずらしく、キューブ型の食パンが一面に並ぶ光景は、ある意味圧巻だったようです。いろいろなパンを並べるよりインパクトがあったため、その光景が話題になりました。
 先述の通り、パンとエスプレッソとは当初、不動産会社が運営母体だったので、内装やインテリアなどには工夫を凝らしていました。
 同様に、購入したパンを詰めるショッパーもデザイン性の高いものを採用しています。白い紙袋に大きく店名を印刷し、赤と白の紐を使った持ち手をあしらったデザインは、デザイナーたちが注目する「ADC賞」を受賞しました。
 伊勢丹の催事で爆発的にパンが売れたため、たくさんのお客様がその紙袋を持ち帰ります。すると、会場内外で「あの袋は何?」「かわいい!」「どこで買えるの?」と宣伝になり、雪だるま式にお客様が増えていきました。商品をいくら追加しても、すぐに売れてしまいました。
 急遽、ピザ屋さんのようなバイクを借りてムーを詰め込み、表参道の店舗と会場のある新宿を1日に何回も往復しました。その間も、店のオーブンはずっと稼働している状態です。毎月50万〜100万円の赤字を出していたベーカリーが、1日あたり30万〜40万円を売り上げていたのです。

 この伊勢丹新宿店の後には、パンとエスプレッソとにとってうれしいできごとの連鎖が起きました。
 あるときは、お笑い芸人さんやアイドルグループがテレビで「パンとエスプレッソとは、すごくおいしい」と発言してくれました。翌日には、ファンの方でお店がいっぱいになりました。
 またあるときは、表参道を一歩裏手に入ったところに、デンマークの雑貨店「フライングタイガー コペンハーゲン」がオープンしました。
 フライングタイガーは、日本1号店となる大阪のアメリカ村ストアができたとき、想定以上に人が集まって臨時休業となったくらい人気のお店です。表参道ストアも人だかりで、整理券が配られていました。
 実は、この近くにパンとエスプレッソとの店舗があります。整理券を受け取った後、カフェで時間を潰そうとするお客様がたくさん来店し、これまで当社を知らなかった人も、パンとエスプレッソとを認知してもらうきっかけになりました。
 その後、マガジンハウスの人気雑誌『& Premium』の創刊
号の食パン特集に、当社のムーが掲載されたり、テレビで鉄板フレンチトーストが取り上げられたりしました。フレンチトーストがSNSでバズったのも、このころです。
「あぁ、やっとだ」。そんなふうに思ったのを、いまでも鮮明に覚えています。お店がヒットしたことで赤字から黒字に転じ、毎月40〜50万円くらいの利益が出るまでに経営が上向きました。ようやく僕自身にも、給料を払えるようになりました。

 

黒字になるにつれ、離れていくスタッフ


 商品がヒットし、パンとエスプレッソとの認知は広まったものの、経営状態は決してよいとは言えませんでした。店が忙しくなるにつれ、スタッフと僕との間に埋まらない溝ができてしまったのです。
 事件は、伊勢丹新宿店の催事期間中に起きました。場所は表参道店舗(1号店)の控室、時間は深夜の3時ごろでした。

「いったい、いつまでやるんですか!」

 当時の店長が突然、パンの袋詰め作業をしていた僕に対して、怒鳴ってきたのです。
 催事中、店は地獄のような状態でした。
 飛ぶようにパンが売れ、店長は朝早くから夜遅くまで頑張ってくれていました。スタッフも常にフル稼働。もちろん、僕も申し訳ない気持ちはありました。
 ここに至るまで、オープン当初から働いてくれていたスタッフは、僕に対してたくさんの不満を抱えていました。
 過去に、バールからベーカリー1本に絞ったとき、毎月100万円~200万円ほど出ていた赤字は、20万〜30万円くらいに抑えられました。行列ができることはなくても、パンとエスプレッソとは「知る人ぞ知る」お店で、コアなファンはついていました。だから、スタッフとしては200万円の大赤字の時代よりは売れている感覚もあっただろうし、「もう十分に頑張っているではないか」という気持ちだったのでしょう。
 けれども、経営者としては黒字化をめざさないわけにはいきません。少しでも売り上げを伸ばそうと、先述のように、移動販売車などを駆使して、ムーを広めようとしていました。でも、思うように売れず、結局店に持ち帰り、スタッフに「ごめんね、これも、売ってね」と頭を下げていました。
 そんなあるとき、スタッフの間で「お店に置いておけば売れるムーを、どうして持ち出すんだ」「何をやっているんだ、あの人は」と不平が出ているのを耳にしました。スタッフにとって僕は、時間と商品のロスを増やすやっかいな存在だったのです。このころ、3、4人のスタッフが一度に辞めてしまいました。
 そして、伊勢丹の催事です。地獄のような忙しさが引き金となり、スタッフの憤りは頂点に到達しました。「もう、パンを焼きたくない」「お店だけで十分売れているのに、どうしてこんなにしんどいことをさせるの?」と非難ごうごうです。結果、当時の店長が、催事終了後に退職してしまいました。
 過酷だっただけでなく、ヒットしたことで「パンとエスプレッソとが、変わってしまった」「昔の、知る人ぞ知る店のままでいたかった」と感じた人も多かったようです。
 いまも、昔も、パンとエスプレッソとには「このお店が好き」というスタッフが集まってくれています。流行や、食に対する感度が高い人も多いです。
 特に、オープン当初は「パンとエスプレッソとは、こうあるべきだ」と考えるスタッフの割合が高かったように思います。僕自身も、ハウスルールのようなものを押し付けてしまうことがありました。
 だからこそ、お店の名が知れて、いろんなお客様が来ることを避けたがるスタッフがいました。時には「モード系のファッション誌には出るけれど、ギャル系の雑誌には出ない」と、僕の知らない間に取材を断っていたこともありました。
 事業には、さまざまなフェーズが訪れると思ってい
ます。最近でも、パンとエスプレッソとが多店舗展開していることに、反対しているスタッフがいます。“チェーン展開”すると、クオリティーが下がってしまうような気がするのでしょう。
 このようなとき、根気よく伝えていくしかないと思っています。事業として黒字化しなければ、僕たちはご飯を食べていけないということ。売りたいものを売るためには、まずは売れるものをつくっていかなければならないこと。こだわりややりたいことは、利益が出てから追求しても遅くないということ。多店舗展開しても、本当においしいパンとコーヒーを提供していれば、お客様はわかってくれるということ。
 これは、いまでもスタッフに言い続けています。

 

パン職人軟禁事件


 少子化など、さまざまな要因から、今後、日本だけでビジネスを拡大していくのは難しいと思っています。そのため、僕はパンとエスプレッソとが軌道に乗ってからずっと、海外進出を視野に入れていました。
 初めに上陸をめざしていたのは、中国です。ですが、法的な問題があり、中国で会社を設立するのは難しいことがわかりました。そこで、次にねらいを定めたのが台湾でした。たまたま、台湾の投資家と知り合ったのも理由でした。
 2013年当時、「台湾はこれからもっと伸びる」と言われていました。実際に、Wi-fiなどのテクノロジーは日本よりはるかに進んでいました。勤勉な人も多く「いずれ、日本は抜かれてしまうんだろうな」と感じていました。
 そうして進出した台湾1号店は、大繁盛しました。気になる点と言えば、投資家から紹介されたオーナーが、少し気難しい人だったことぐらいです。でもこのことが、後に大惨事を招くとは……。そのころの僕はみじんも思っていませんでした。

 当時、台湾はトイレットペーパーをトイレに流すことができませんでした。水の流れが弱かったり、ペーパーも水溶性でないものが主流だったりで、流すと詰まってしまうからです。そのため、トイレ内には使用したペーパーを捨てるための、大きなゴミ箱が設置されていました。
 お店が忙しくなると、ついついペーパー用のゴミ箱がいっぱいになってしまいます。もちろん、それは衛生的によくないのですが、オーナーはそのようなときにスタッフを呼びつけ、お客様の前で思い切り叱責していたようです。しかも、たくさんのお客様が注文やメニューのサーブを待っているときにも、スタッフを怒鳴りつけていたというのです。
 当然、そこで働く人には不満がたまります。僕宛にもしょっちゅう、苦情を訴えるメールが届きました。台湾を訪れた際、僕はオーナーに対し、そのような振る舞いは控えるよう伝えましたが、あまり改善されませんでした。お店は繁盛しているのに、職場環境が整いませんでした。オーナーとの意思疎通がうまくいかず、スタッフ教育も不十分でした。
そのような中、オーナーが現地の大手百貨店との契約を取り付け、新店舗進出を決めたのです。
 路面店と百貨店が異なる点は、客層、そして営業時間です。路面店ではお店が自由に営業時間や休業日を決められますが、百貨店の営業時間に合わせないといけません。
 業務に慣れたスタッフが少ない中で、強引に百貨店進出を決められてしまい、スタッフも休みが取りづらくなってしまいました。仕事も覚えきっていない状態で百貨店にも駆り出され、失敗すれば、オーナーに叱責される……。そんな悪循環で、どんどん辞める人が出てしまったのです。結果、人手不足となり、繁盛している1号店を閉めて、残っているスタッフ全員を百貨店に充てるしか方法がなくなってしまいました。
 しかも、その百貨店は客数も多くなく、あまり売り上げは伸びませんでした。さらに、台湾の人からすると、1号店がなくなってしまったので「あの店は、撤退したんだ」という評判が立ってしまったようです。パンとエスプレッソとを、探して来店してくれる人もいなくなりました。ただでさえ少なかった百貨店への客足が、みるみるうちに減ってしまったのです。
 そうなると、オーナーは「どうなっているんだ」と怒りはじめます。「あなたが決めたことでしょう」と言っても、聞く耳を持ってくれません。
 スタッフ教育以外にも、うまく折り合いがつかないことがありました。それは、ムーの販売をめぐってです。
 お伝えした通り、ムーはバターをたっぷり含んでいるため、焼く前の生地はべたべたの状態です。最終的に、きれいな正方形に焼き上げるまでの工程には、かなりの技術が必要です。
 当社も過去に、ムーを量産できるようにしようと、さまざまな機械メーカーにかけ合ったのですが、いまある機械では難しいことがわかりました。水分量を多く含む生地は、ベルトコンベアーに乗せるとへばりついてしまうため、オートメーション化できないのです。生地を冷凍して保存しておくなど、考えられる手立ては試しましたが、繊細なムーの生地は扱いが難しく、量産することは当時の技術では叶いませんでした。
 まさに職人技の世界なのです。でも、台湾人オーナーは理解してくれませんでした。「ムーをもっと売れ」「機械でも冷凍生地でもなんでもいいから、量産しろ」の一点張りです。できない理由を伝えても、「わざと売り上げを伸ばさないようにしている」「嫌がらせか」と怒りだす始末です。

 さらに困ったことが起きました。
 台湾には、当社のNO・2のパン職人を派遣していました。基本的に、台湾のお店でパンを焼いていたのは、彼でした。
 あろうことか、オーナーが「そっちがその気なら、パン職人を帰さない」と言いはじめたのです。そのころ、彼は体調を崩していて「一度日本に戻りたい」と訴えていたのですが、決して許してくれませんでした。
 さすがに、頭にきました。もう撤退しようと決めた僕は、パン職人を取り返しに台湾へ向かいました。通された会議室で、パン職人はオーナー側の椅子に座らされていました。
 そのときの話し合いも、ひどいものでした。

「何なんだ、詐欺か。わざと売り上げを落として、嫌がらせをしているのか」
「真剣に取り組んだ結果です。百貨店への進出も、スタッフが育っていない段階では、無謀だったと思います。せっかく入ったスタッフも、厳しすぎるから、みんな辞めてしまうんです」
「台湾に技術を落としたくないから、職人の技を隠しているんだろう。だから、スタッフにもそれを教えないんだろう」
「僕たちは、日本式の繊細なパンで勝負しています。入ったばかりのスタッフがいくら頑張っても、すぐにそのパンを作ることができないんです」
「いや、詐欺だ。お前は、何かを隠しているんだ」

 キリがありません。僕は、その場でパン職人を連れ出し、台湾を後にしました。
 パン職人がいなくなったので、その後
、オーナーは百貨店の店舗も撤退せざるを得なくなりました。
 

お前は「ふざけている」


 その後、韓国、香港にも進出しましたが、結論から言うと、うまくいきませんでした。
 韓国でも、オーナーとの関係性がこじれてしまいました。オーナーは、こちらから送り込んだスタッフや、現地で新たに雇った人は「信用できない」と、自身の家族を働かせていました。そのため、台湾のときと同様に、スタッフへの風当たりが強く、どんどん退職者が出てしまいました。
 結果、売り上げが低迷し、フランチャイズ費用の支払いも滞りました。当社から「パンとエスプレッソとの看板を下ろしてください」と言っても、無視して営業を続けていました。
 香港はそのような問題はなかったのですが、一等地に店を出しているのにもかかわらず、現地のオーナーが価格を安くしすぎてしまいました。もちろん、こちらからも価格の提案はしましたが、香港のオーナーは、表参道の店が本当に好きで「その価格帯と、雰囲気を香港で再現したい」とのことでした。やはり、利益がうまく出ず、2年で撤退となりました。ただ、香港は“円満撤退”だったということは、付け加えておきます。

 このような失敗を繰り返した結果、当社には莫大な損失が残りました。額にして、1億円近くありました。また、お金がない会社に逆戻りしてしまったのです。
 僕は起死回生の策に出ました。それは、会社を上場企業に売ろうという決断です。僕は、売却先の子会社の社長となりました。出店計画などの代表権は、変わらず僕が持つという内容で、お金を借りるときは、親会社の決済が必要にはなりますが、運営はこれまで通り行えるという約束でした。
 上場企業に傘下に入ったのは、もう一つねらいがありました。
 海外進出の経験から、「うちの会社は契約書まわりなど、会社の本部機能が極めて弱い」と感じていました。お察しの通り、トラブルが続出しても、戦える人がいなかったのです。
 そこで、そのような体制をイチからつくるより、すでにできあがっている会社の傘下に入ったほうが早いと考えたんです。
 そのほかにも、メリットがありました。飲食業界というと、ブラックな就業形態が多いというのが実際です。けれども、上場企業の傘下に入れば、コンプライアンスなどが厳しく求められます。そのため、当社もホワイト企業に生まれ変われたのです。職場環境が整うことで、残業時間が減り、休日も増えました。

 ただ、子会社になるということは、決してよい面ばかりではありませんでした。
 新たに出店するとなると、当然、役員会を通さなければいけません。そのたびに、親会社の役員へ向けて、僕は説明資料を作りました。大きな投資だけでなく、5万円前後の設備購入ですら、お伺いを立てなければなりませんでした。
「もう、嫌だ」と思ったのが、2016年にフルーツサンドの専門店を出そうとしたときです。
「フツウニフルウツ」という店名で、稟議に上げました。店の場所は、代官山。駐車場の管理人室のようなスペースを借りるだけで、家賃はひと月10万円ほど、かかる投資費用も200万〜300万円程度です。
 これが、役員会でめちゃくちゃに叩かれました。

「フルーツサンドなんて誰が食べるんだ」
「400円で出すと言っているが、サンドイッチの値段にしては、高すぎる」
「『フツウニフルウツ』という名前も、意味がわからない」
「おもしろくない。ふざけている」……。

 そのころ、フルーツサンド専門店というものはあまりありませんでした。せめて、サンドイッチ店にしろと言われましたが、代官山にすでにたくさんあるサンドイッチ店を出しても、ヒットするとは思えませんでした。それに、みんな気づいていないだけで、フルーツサンドって、普通においしいですし。ですが、当時の役員の方々には、この感覚を理解してもらえませんでした。少ない投資案件を提案するだけでここまで言われる必要があるのかと、とても悔しく思ったのを覚えています。最終的には、無理やり押し通す形で出店を決めました。
 ところが、これが大当たり。SNSではたくさんの写真がアップされ、連日、メディアでも取り上げられました。サンドイッチの断面から鮮やかなフルーツが顔をのぞかせる様子は、多くの人の目を惹きつけました。いまでこそ、サンドイッチ店を含むさまざまなお店が、フルーツサンドに力を入れていますが、当時はめずらしい存在だったのです。
 売れたとなると親会社も広報活動に勤しんでいました。

 うれしい反面、少しムッとしつつも、フツウニフルウツのヒットは、僕に自信を与えてくれました。「パンとエスプレッソとにしがみつかなくても、やっていける」……。いま思えば、これが転機だったのかもしれません。
 これを機に、その会社を去ろうと決意しました。子会社になってからまだ1年も経っていなかったので、親会社とはかなり話し合いました。
 一方、パン職人の櫻井も、僕に同意してくれました。「また、一から2人で会社を立ち上げよう」なんて話をしていました。
 櫻井は、パンとエスプレッソとにとって“象徴”のような存在です。彼が会社を辞めるとなると、残されたスタッフを統率することは、おそらく難しくなります。
 だから、僕に続いて櫻井が辞めると言ったとき、親会社は「折衷案を考えよう」と言いだしました。結果的に、運営は僕たちが行い、パンとエスプレッソとの商標は親会社が持つ、業務提携のような形で、落ち着きました。
 その際、フツウニフルウツの商標も、持っていかれました。
 パンとエスプレッソとを譲ってくれないのは、理解できます。それを持ち続けなければ、そもそも僕たちの会社を買収した意味がないですから。けれど、フツウニフルウツまで……。「なんでやねん!」というのが、正直な気持ちでした。
 元親会社はその後、二つの商標を使って営業をかけ、百貨店の催事の仕事などをたくさん獲得していました。どんどん仕事をとってくるため、人手が足りず、僕たちにヘルプを要請してくることもありました。そこで人手を出さないと、ブランドイメージに傷がつくため、こちらも断ることができません。催事会場に、普段は店頭に立っていない本部のスタッフを派遣することもありました。ブランドと運営が別という状況に、ストレスは溜まっていきました。
 けれども事態は急変します。しばらくして、その元親会社に粉飾決算があることが判明し、急激に経営が傾きました。そして、パンとエスプレッソとと、フツウニフルウツの商標が、たまたま僕の知人に売り飛ばされたのです。僕は、それらをすぐに買い戻しました。
 こうして、当社は再び二つの商標を取り戻すことができました(僕の知人には、きっちり、500万円をとられてしまいましたが……)。

 

コロナで、泣いた


 元親会社から離れた2017年、僕たちは再び会社を立ち上げました。それが、現在の株式会社日と々とです。
 2019年には、パンとエスプレッソとも10周年になり、店舗数も増やして、経営は上向き、順調に伸びていきましたが、世界を襲ったあのできごとが起こりました。新型コロナウイルスです。
 2020年1月30日、世界保健機関(WHO)がパンデミックを表明したのは、みなさんご存じの通りです。その直後は、売り上げには影響がありましたが、慌てるほどではありませんでした。
 ところが、タレントの志村けんさんが亡くなった3月29日を境に、状況が変わりました。その翌日、多いときには月間2000万円を叩き出す京都・嵐山の店舗の売り上げが1日たったの7万円になったのです。
 一瞬、桁を見間違えたのかと思いました。その後、各店舗の日報に目を通すと、どの店舗も売り上げが激減していました。
「やばい」――。次の瞬間から、各店舗が入っているテナントの大家さん全員に電話をかけました。家賃の支払いを、待ってもらうためです。
 過去に、不動産会社で働いていたとき、僕は経理部にいました。その経験で、よいも悪いも、このままの状況が続けば、会社がいつ潰れるのか、瞬時に計算できてしまったのです。家賃や従業員の給料の支払いを考えると、このままの売り上げでは、会社はもって数か月だと悟りました。
 その日はずっと、パソコンの前に座っていました。仕事に集中しようと思いましたが、お店にお客様が来ないので、そもそもすることなんてありません。焦りと、先行きの見えない不安が、頭の中を渦巻いていました。「全員、リストラしなければいけないかもしれない……」そんなことが脳裏をよぎりましたが、周囲のスタッフに、相談することもできません。ずっと、むしゃくしゃしていました。お酒を飲んですべて忘れてしまいたいけれど、周辺の飲食店はみんな閉まっている。ここに来るまで、失敗ももめごともたくさんありましたが、自分でどうすることもできないこのころが、人生で一番つらい時間でした。
 そのような中、「家賃を待つ」とお返事をくださった大家さんもいました。42歳にして、初めて職場で涙を流しました。
 日本でも緊急事態宣言が発令された翌週、僕は、スタッフ全員に向けて、こんなメッセージを送りました。

新型コロナウイルスによって自宅待機をお願いしているスタッフの方、人が減り1人の作業量が増えるなか頑張って勤務しているスタッフの方、ありがとうございます。

今回の緊急事態宣言を受け、お店の方針について改めて考えました。
その結果、やはり私たちはお客様の1日1日を支え続けるために、美味しいパンとコーヒーを提供したいと思い、可能な限りお店を開き続ける事を決めました。
しかし、今の状況でお店を開くのは、色々と問題もあります。今までのやり方を諦めて、形を変えていく必要があります。
営業時間の短縮、カフェのサービス提供の見直し、それから社運をかけたオンラインストアによる通信販売です。
これからは実店舗ではなく、オンラインストア中心に方針転換します。

明日サイトがオープンします。
皆さん、家族や友達、知り合いに宣伝して下さい。

頑張りましょう。
よろしくお願いします。

 売り上げが一気に落ちた直後、全店舗でオンラインミーティングを行いました。そして、その場で、オンラインストアをつくることを宣言しました。
 コロナ禍になる前から、オンラインストアの準備は進めていました。けれども「お店で十分売れているのに、配送の手間がかかるオンライン販売なんてしたくない」という反対の声が多く、グッズ販売のみで、ずっと止まったままの状態でした。コロナ禍を機に、オンラインストアのアクセルを全開にしたんです。
 お店で焼き上げたパンを冷凍し、各店舗に送り合うことで互いに品質をチェックしました。味に問題ないのか、理想の解凍時間は何分かなど、みんなで模索しました。2週間ほどで、オンラインストアオープンに漕ぎ着けました。
 あのころ、日本中のみんながおいしいもの、楽しいことを我慢していたのだと思います。オープン後の反響は想像していたよりも凄まじく、サーバが2回ダウンしました。対応に追われているころ、某大物女優さんから「買えないんですけど、どうしたらいいですか」と問い合わせをいただくこともありました。
 こうして、半年間ほどはオンラインストアで食いつなぐことができました。食いつなぐと言うより、店舗を閉じても経営が回るくらいに、売り上げが伸びました。
 その後は、他社も参入してきたり、実店舗への来客も徐々に回復してきたりで、当時のお祭り騒ぎのような売り上げはありませんが、オンラインストアは現在も続けています。
 僕は人から指図を受けるのも、指示するのも嫌いです。そのため、業務連絡以外で、スタッフ全員に向けてメッセージを送ったのは、このときが最初で最後です。それくらい、追い込まれていました。全員が同じ方向を向かないと、本当に会社が潰れてしまうと感じていました。
 結果として、爆発的に売れたので「あぁ、言わなければよかった」と思ったのは、ここだけの話です(笑)。

 

日本が絶対に負けないもの


 大赤字、海外進出の失敗、コロナ禍と、さまざまなもめごとと、痛手を被ってきた日と々とですが、しぶとく生き残れた理由の一つが、ブランディングが成立していたことだと考えています。
 パンとエスプレッソとのネーミングもそうですが、新店舗を出す際は、必ずコピーライターを入れるようにしています。ホームページに掲載するキャッチコピーも、コピーライターに考えてもらっています。そのくらい、言葉は大切だと思っています。
 お伝えしたように、パンとエスプレッソと
には「このお店が好き」というスタッフが集まってくれています。そして、各店舗のメニュー開発や、お店で使う食器やテーブルなどの選定はスタッフに任せています。同じ「好き」を持つ人が集うからこそ、什器はお店によってバラバラでも、不思議な統一感が生まれます。
 スタッフ全員に「好き」の共通認識があること。お客様にも「パンとエスプレッソとは、こんなところ」というイメージがついていること。これが、パンとエスプレッソとのブランディング、そして強みだと思っています。

 実は、不動産会社からパンとエスプレッソとを買い取って独立した際、黒字化したら、すべて手放そうと考えていました。
 ところが、紆余曲折しているうちにスタッフは増え、会社の規模も大きくなっていきました。パンとエスプレッソとで好んで働いてくれているスタッフのためにも、会社を存続させていくことが、ますます重要になってきました。いまでは、自分が生きていくためだけでなく、会社をよりよい状態にして、次世代にバトンタッチをしなければならないと考えています。
 ベーカリーやカフェの多くは、低賃金であったり、退職金もなかったりするようなところがあります。そうなると、一生懸命働いていても「私の将来は、大丈夫なんだろうか」といった漠然とした不安がつきまといます。せめて、日と々とに来てくれたスタッフたちは、この悩みから解放してあげたい。
 そう思ったとき、今後はやはり、これまで通り日本だけで事業を続けていくのでは、難しいと感じています。やはり、海外に目を向ける必要があります。
 いま、大手旅行代理店エイチ・アイ・エスと組み、フランチャイズ店を海外に広めようと計画しています。具体的には、アメリカに本部を置く方向で、話を進めています。
 もう一つ、考えているのが、フィリピンへの進出です。フィリピンの人は勤勉ですし、英語を話すことができます。英語話者のパン職人を育てることができれば、世界へ派遣することができるので、世界展開も夢ではなくなります。現在、日本ではパン職人が不足していますし、日本人の多くは、英語を話すことができません。人を育てる拠点として、フィリピンがベストだと思っています。
 ここまで「日本はダメだ」と暗い話ばかりしてきましたが、僕は、日本のポテンシャルにも期待しています。まず、和食に限らず、パンも含めて、日本の食のレベルは世界一だと考えています。
 そして、どれだけ諸外国が発展しても、技術が日本より上回るようなことがあっても、日本には、他国が絶対に勝てないものがあります。それは、自然と歴史です。特に歴史は、長い時間をかけて培うものです。追い抜こうと思って、追い抜けるものではありません。
 京都・嵐山にあるパンとエスプレッソとは、当社の中でも成功している事例です。日本人はもちろん、海外からの観光客にもたくさん利用されています。日本には京都以外にも世界に誇れる観光地がたくさんあります。外貨を稼ぐということは、今後、日本を再浮上させる一つの鍵となるはずです。
 そのため、海外進出のほか、エイチ・アイ・エスと一緒に日本全国47都道府県それぞれに、ご当地版のパンとエスプレッソとをつくるプロジェクトも進めています。パンとエスプレッソとが、その土地に人が集う「入口」になることができればと思っています。

 いままで、本当にいろんなことがありました。だけど、今後も飲食にかかわることはすべてやっていきたいと思っています。突拍子もなく「中華店をつくりたい」なんて言って、時々周囲には怒られますが、さまざまなジャンルへの展開は、スタッフのためでもあると考えています。
 僕はそんなふうには思わないのですが、おしゃれなカフェは「若い女性しか働けない」と思う人がいます。実際、長く働いてくれているスタッフからも「40代で、若い人たちと一緒に働くのは、しんどい」と相談されることがあります。スタッフもお客様も若い人が多い中で、40代の自分が店頭に立つことに抵抗を感じるようです。そうして、日と々とが好きなのに、去っていくスタッフもいました。
 特に当社は、女性スタッフがたくさんいるので、女性の働き方を考えることは会社存続のためには避けて通れません。「働き方を変えたい」と思うスタッフのためにも、セカンドステップを用意してあげたいと思っています。
 現在、カフェの上に民泊をつくったり、花屋を併設した店舗を増やしたりすることを検討しています。そうすれば、カフェで働くのがつらくなったとしても、そちらの業態に移ることができるからです。和食店などは、年齢を重ねた女性が働いていても素敵です。花屋と和食店は、すでに日と々とで運営していて、特に和食店はヒットしています。
「好き」って理屈じゃないんです。だからこそ、当社を好きなってくれたスタッフには長く働いてほしいし、できる限り、そのような場所を提供したいと思っています。それが、僕が経営者としてできる社会課題の解決で、パンとエスプレッソとを、その土地を、ひいては日本の人々を、元気にしてくれるのだと信じています。

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