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石和設備工業様.jpg

2 0 2 2 年、地域コミュニティの創出を目的に近隣で人気の飲食店や雑貨店などに集まって もらい、マルシェ「KAWAYA市」を始めました。公衆トイレの目の前でです。最初は多くの人が 抵抗感を持つのではと心配しましたが、すでに3回開催しています。そんな取り組みに対して いろいろな団体から評価されたことはとてもうれしく、励みになる出来事でした。

2023 年に地域振興に貢献したとして、関東商工会議所連合会の「ベスト・アクション 表彰」を受賞。NPO法人日本トイレ研究所が主催する「日本トイレ大賞2023」ではトイレを 通じて地域コミュニティづくりを進めたことが評価され、グランプリを受賞しました。

 

また、 これまでにないアイデアや発想で公共空間を活用する実例を応援する「NEXT PUBLIC AWARD 2023」( 公共R不動産主催)では優秀賞を受賞しました。受賞が相次いだことで、 メディアで取り上げられる機会も増えてきました。  少しずつ知ってもらえるようになった石和設備工業ですが、私が継父から経営を引き継い だとき、会社はつぶれかけていました。

落ちこぼれだった子ども時代

姉1人と弟2人の4人きょうだいの長男として生まれました。長男はしっかり者が多いとも 言われますが、私はおっちょこちょい。親が目を離すと転んだり電柱にぶつかったりして、 目が離せない子どもだったようです。

経済的な事情で私と姉は父と暮らすことに なりました。父は姉に愛情を注ぐ一方で、できの 悪い私には目もくれません。子どもの自分には どうすることもできないと現実を受け入れる しかありませんでしたが、当時小学5年生だった 姉は私のために父や祖母に抗議してくれた ことを覚えています。幼少期、姉は私の母親の ような存在でした。一生頭が上がりません。

数カ月に一回ぐらい、母と弟2人に会える 時間がありました。母はいつもおもちゃを 買ってくれました。家の近くまで送ってくれる 弟2人と母との別れ際、自宅までの道中(たった 3 0 ~ 4 0 メートルほどですが)はおもちゃを 抱えながら姉と号泣しました。

 

そんな生活も1年ほどで終わりました。母が 再婚し、継父が私たちきょうだい4人を引き 取ってくれることになったのです。

人より秀でた才能があるわけでもなく、 クラスの中で目立つこともなかった小学校 時代、友だちのお母さんからほめられたことが ありました。女子ばかりの器楽クラブに入って いたのですが、「小澤君は人の目を気にしない でやりたいことを堂々とやれる子ね」と。他人から見た自分の評価って意外なところなんだなと 思いました。

 

中学生になって県立の進学校をめざして入塾テストを受けたら、一番上のクラスになり ました。そのとき、姉に「大悟って頭良かったんだね」とほめられました。私が初めて家族に 期待された出来事だったかもしれません。ところが、この「誰かに注目される体験」が私を間 違った方向に進めることになるのですから皮肉なものです。  夏休みの間、塾をサボって不良グループと遊ぶようになりました。金髪に太いズボンを はいて虚勢を張るだけで怖かったはずの先生は優しくなり、同級生はやたら私に気を使い だしました。そんなとき、先輩から「生意気だ」という理由でボコボコに殴られました。見せ しめのリンチです。「自分はこのままだと本当に悪い世界から抜け出せなくなる」と目が覚めて 不良グループから抜けました。

 

高校に行きたい。そう一念発起して勉強を再開しました。先生、友人たちの助けもあって なんとか高校に通うことはできましたが、再び不良グループと付き合い始めてしまいました。

 

一度ならず二度までも同じ過ちを繰り返してしまったのです。高校も結局は3 年生になる タイミングで単位が足りずに中退しました。

詰んだ人生を救った小さな成功体験

学校をやめてブラブラしていると、親類のおじに「これ以上親に迷惑かけるな!  働け! 」 と諭され、継父が経営する水道工事会社に入社しました。18 歳のときです。

 

社内には4 0 ~ 6 0 代の人しかいません。これまでとはまったく逆の環境です。刺激も目的 もなく、仕事とも呼べないことにダラダラと時間を消費して気がつけば7年。考えることを せずに生きてきたしっぺ返しを受ける生き地獄のような日々でした。

 

なぜこんな思いをしなければいけないんだろう、この先なんのために俺は生きていくんだ ろう─ ─ 。当時2 5 歳の私は「自分の人生はもう詰んだ」と思いました。  考えてみれば、先を見ず行き当たりばったりで過ごしてきた当然の報いです。  当時の私は仕事から逃げる癖がついていました。おじから怒鳴られたり、理不尽なことを 言われたりするのも、頭の悪かった私には必要な時間だったのかもしれません。

 

そんな私でも、少しだけ仕事を任される機会に恵まれるようになってきました。仕事を やり遂げると、お客様から「ありがとう」と感謝の言葉をいただくようになったのです。仕事を 任されることで水道工事の技術が向上したこともうれしかったのですが、なにより自分の仕事で人 に喜んでもらえるという経験は「人の役に立って、お金をもらう」という仕事の楽しさを知る きっかけになりました。

そのころ、私はスノーボードに出合っての めりこみました。滑ることが好きだったことに 加え、私がかれていった理由はスノーボード を通して出会う人たちがみんなやりたいことに一生懸命向き合っている魅力的な人たち だったことです。

 

憧れのスノーボードチームに入り、初めは 充実していました。でも、スポンサードされて いるほどのハイレベルなライダー集団の中に 入ってしまうと、自分はチームにとって役に 立っているのだろうかという思いが湧いてき ました。スノーボードのスキルが高くない自分 がどうすればチームに貢献できるのかと悩ん でいたのです。

スポンサードされているライダーは来シーズンの契約更新に向けて動画を撮りためてい ました。その動画を見て、「がんばって努力し たら俺のほうがうまく動画を編集できるんじゃないか」と想像するようになりました。

動画編集はいまでこそスマホで簡単にでき ますが、当時は編集ソフトの操作もまだ難しく、 苦手なライダーが多かったのです。「編集にこ だわればもっとカッコよくなるのに」という動画を見ているうちに、「この分野ならチームに 貢献できる」と確信しました。

 

そこからは映像コンテストに向けて撮影、寝食を惜しんで動画編集の勉強、実際の編集…… と夢中でした。1年目にあるコンテストで入賞すると、ライダーから「動画編集はおまえに任 せた」と映像の素材が送られてくるようになり、翌年には発行部数日本一の業界雑誌のビデ オコンテストで4位に入賞することができました。

 

仕事でお客様から感謝されたことで仕事の楽しさを知り、大好きなスノーボードというコ ミュニティで活躍して人に貢献できた。こうした成功体験で得た自信は、私の人生の転機で した。内にこもらず外へ出ていくことの大切さも身にしみてわかりました。

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