「当たり前」がいちばん難しい
児島 保彦
1937年長野県千曲市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、大阪セメント株式会社(現・住友大阪セメント株式会社)の常務取締役を経て、オーシー建材工業株式会社社長を歴任。万年赤字会社を半年で黒字に転換する。退任後65歳で経営コンサルタントとして独立。清泉女学院短期大学兼任講師、いすゞ自動車中部株式会社副社長を歴任。SBC信越放送のコメンテーターを務める。SMBCコンサルティング(三井住友銀行グループ)、日本経営合理化協会、大阪商工会議所などで講師を務める。
定年後、コンサルタントの道を進む
86歳なったいまも、現役でコンサルタントをしているわけですから、仲間の中には、私のことを「ウルトラスーパーじじい」なんて呼ぶ人がいます。このあだ名が名誉なのか、不名誉なのかはわかりません。けれども、一つ言えるのは、これまでの長い、長い人生経験が、確実にコンサルタント業に役立っているということです。
コンサルタントの役割を一言で表すとするなら「知恵を売ること」だと思っています。どんな質問を受けても、どんな状況に立たされている会社に対しても、自分の引き出しからアイデアを出し、状況を好転させる。いかに、自身のたんすを“肥やしている”のかが、肝となるのです。
私は、1937年、長野県千曲市の生まれです。コンサルタントになったのは、定年後、65歳になったときです。それまでは、ずうっとサラリーマンをしていました。
私の経営手法は、「当たり前のことを、当たり前にできるようにする」。すごく、シンプルです。でもね、多くの企業は、「当たり前のこと」が不思議とできないんですよ。だからこそ、実践できたときは、おもしろいくらいに業績が上がります。
そんな「当たり前の経営」について記す前に、どうして、その経営手法にたどり着いたのかをお伝えしたいと思います。「当たり前の経営」は、私の半生に深く関係しています。話は、1961年、私が新卒で入社した大阪セメント株式会社(現・住友大阪セメント株式会社)時代に遡ります。
冷や水を浴びせられた
大阪セメントで最初に配属されたのは、株式課という部署です。株券を何枚発行するだとか、配当金はいくらだとか、そんな計算をするのが、私の仕事でした。
正直、何の生産性もないし、ちっとも面白味を感じていませんでした。だから、とにかく早く仕事を終わらせることだけに集中していました。そんなふうに、いい加減に仕事をしていたので、私が担当した分は、後から他の人が見直すと、間違いだらけでした。それでも反省することなく、むしろ「向いていない仕事をやらせる会社が悪い」とすら、思っていました。いま思い返すと、恥ずかしい限りです。
当時と現在とでは、企業と社員の関係はまったく異なります。私の入社当時は、基本的に終身雇用が約束されていました。そのため、会社は、新卒で入社した社員の面倒は“墓場まで見る”のが当たり前でした。社員も、平日は遅くまで働き、その後の「飲みニケーション」、休日の接待ゴルフなど、四六時中、会社とつながっていました。まさに「企業戦士」です。
安泰と言えば、安泰です。でも、私はそれでは満足できなくなり、産業能率短期大学(現・自由が丘産能短期大学)の夜間学部に通いました。そこで学んだのは、経営学です。
卒業後は、コンサルタントの唯一の国家資格である「中小企業診断士」の資格も取得しました。そして、この後、私の後の人生を変える出来事が起きます。
そのころは、「個人情報保護」も現在ほど遵守されていませんから、どこからか情報が漏れて、とある会社が私のもとにスカウトへ来たんです。「中小企業診断士で、あなたは上から2番目の成績でした。アメリカへの留学の権利もつけます。コンサルタントになりませんか」と。
2000年代以前の日本は、転職もいまのように一般的ではありません。転職をするのは「1000人に1人」と言っても、過言ではないような時代でした。けれども、アメリカへ留学させてもらえるなんて、これほどよい条件はありません。私は、転職しようと思ったんです。
ところが、この話を聞きつけた産業能率短期大学の当時の学長は、私にピシャリと冷や水を浴びせました。「君、いまの職場で、一生懸命仕事をしたことはあるのか」「結果を残してから、次へ行くのが筋ではないのか」と。この言葉に、私はハッとさせられたのです。
いまの会社で「頑張った」と胸を張って言えることは、これっぽっちもない。このような仕事の取り組み方で、アメリカへ行き、コンサルタントになっても、同じことの繰り返しになるだけだ。そのとき初めて、中途半端な覚悟で、好き勝手なサラリーマン生活を送っていたことを、非常に反省したのです。当時、30歳。入社して、7年目くらいのころでした。
それからは、仕事に対する取り組み方が変わりました。スカウトを断り、懸命に働きはじめたのです。
人生、何事も勉強
その出来事が起きるまで、仕事に対してひたむきになったことはありませんでしたが、「自分が挑戦したいこと」については、いつも一直線でした。
話は、入社1年目のころに戻ります。先述の通り、入社後に配属されたのは、株式課という部署でした。ちょうどそのころ、株式課の業務(株式の整理や管理=証券代行)を取り扱う会社が誕生しました。
それを知った私は、あるとき、副社長に「株式課を潰してくれ」と依頼したんです。「証券代行を担ってくれる会社があります。社員に高い給料を払うより、こちらへ仕事を移したほうが、合理的ではないでしょうか」と。アウトソーシングしたほうがいいというのが、私の言い分でした。たまたま、副社長が私のそばを通りかかったタイミングで、このような進言をしました。入社1年目の社員が、通りすがりに突然そんなことを言うものですから、副社長はかなり驚いていました。
けれども、この行動が「おもしろい」と評価を得て、「部署がなくなったら、君は何をしたいんだ?」と尋ねられました。私は「社内報をつくりたい」と答え、半年後、株式課の仕事は本当に証券代行会社へ流れ、私は晴れて、社内報の創刊号の編集長となったのです。
その後、1年ほどで営業部隊へ異動しました。先ほどお伝えしたように、一度は会社を去ろうとするのですが、踏みとどまり、35歳のときには、横浜支店の支店長になりました。実は、横浜支店を立ち上げたのが、私です。
それまで、大阪セメントには、横浜に支店がありませんでした。昭和の日本は、いまよりもはるかに、年功序列制度が色濃い時代です。待っているだけでは、自分が「偉く」なれるのは、うんと先です。だから、新たに“城”を造り、そこの城主になったほうが、早く出世できると考えたんです。もちろん、きちんとした市場調査を行い、潜在顧客を算出し、十分なポテンシャルは見出したうえで、会社に横浜支店の創設を提案しました。よく言えば戦略的、悪く捉えれば、ずる賢いとも思われるかもしれません。
いまの若い人たちは、出世することをためらう人がいるようですね。でも、「偉く」なるのは、決して悪いことではないと思います。「上をめざす」ということは「自分に挑戦する」ということとイコールなんです。
また、「遊ぶ」ことに関しては、人一倍熱心に取り組んでいました。仕事が終われば、部下を引き連れて、夜の街へ繰り出していました。一晩で2、3軒をハシゴするため、万札が瞬く間に消えていきました。誤解がないようにお伝えしますと、当時は、国民全体の交際費が、防衛費を超えるくらい、日本全体が元気な時代でした。遊んでいたのは私だけではありません。
私は、夜の仕事ほど難しいものはないと思っています。今日来たお客が、明日も来るとは限りません。ツケにするにも、きちんと支払ってもらえるかの目利きが大切です。どうやってお客を見極めるのか、どんなふうにスタッフを教育するのか、私はこれらを、夜の街で働く女性たちから学びました。詳しくは、『夜の世界の経営学 ナイトタイムエコノミーで学んだ究極のサービス』(22世紀アート)にまとめているので、こちらを参考にしてください。
机にかじりつくのも勉強ですが、遊ぶことも立派な社会勉強です。学ぼうと思えば、どこからでも知見を得ることができます。例えば、休みの日、妻に付き添う形で百貨店へ買い物に行く男性はいますね。そのとき、エスカレーターのそばにあるベンチで、ぼうっと座って待っているような人はダメですよ。こんな隙間時間も、地下の野菜売り場から、最上階の催事場まで歩き「どこに人が集まっているんだろう」「何が売れているのだろう」と研究できる人が大成します。
こんなふうにして、遊びも、あるときからは仕事に対してもひたむきになったので、40代に差し掛かるころには、新規事業の開発者に任命されました。
大阪セメントのような建材事業は、取り扱う商品も重厚長大なせいか、会社の組織風土も保守的になりがちです。社長から「君は、よく遊ぶ人だから、新しい文化を取り入れてくれ。事業は何でもいい」と指示を受けたのです。
これはおもしろいと、いろんな事業を企画しました。書店を10軒以上立ち上げたり、コチョウランの栽培や、ウナギの養殖に取り組んだりしました。
セメントは製造する際、1500度ほどの高温で焼成します。このときにできる温水をうまく活用することで、コチョウランやウナギを育てることができるんです。書店は、まったく関係がありませんけれど。
このウナギの養殖が、一筋縄ではいきませんでした。ウナギの稚魚は、台湾から輸入していたのですが、その土地のヤクザを通さないと買えないんです。通さずに買うと、台湾から羽田空港に空輸したころには、稚魚が全滅している、なんてことになるのです。実際、私の知人はこれで5億円ほどの損失を出しました。
現在は、「暴力団との関係は廃絶」というのが社会の流れですが、当時はそんなわけにはいきませんでした。だから、ヤクザと債権をめぐって競うこともしょっちゅうでした。そのような場面でも、表に立たされるのは私でした。
とある観光船事業を立ち上げたときも、その営業を巡って組の幹部と交渉する場面がありました。このような際に、一番やってはいけないのが、怖さのあまり、明らかに受け入れられない条件にもかかわらず、「わかりました。会社に戻って確認します」と、その場をいったん収めようとすることです。実際、私の前の担当者も、それで失敗していました。
一度「持ち帰る」と言ってしまうと、相手は「了承が得られた」と感じてしまいます。そして、後日「社内で審議したのですが、通りませんでした」と会社のせいにして断る。これでは「一度はOKしたのに」と、相手に不信感が募ってしまいます。
ヤクザでも取引先でも、相手が誰であろうとも、できないとわかっていることは、その場ではっきりと断るべきです。そのうえで、両者の目的を達成するために、妥協点を擦り合わせていく。これが、交渉です。
ヤクザと対峙した際、私は開口一番「私はサラリーマンだから、できないことは、できないと、この場で言います」と伝えました。すると相手は、「いままでの、口だけの担当者とは違う」「気に入った。お前を信じる」と、その後はスムーズに交渉が進みました。最後には、「あんた、ヤクザになったほうが出世するんじゃねぇか」と、お墨付きまでもらってしまいました。
サラリーマン時代の経験が礎に
当時、日本は「談合文化」が蔓延っていました。
しかし、1947年に制定された「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」、つまり「独占禁止法」が、各業界の構図をじわじわと変えていきました。
そのころ、23社あったセメント関連の同業他社は、2023年現在では、3社にまで吸収・合併されています。大阪セメントも住友セメントと合併し、現在の住友大阪セメントとなりました。
実は、合併前の大阪セメントに留まると腹をくくったときから、私は「どうせなら、この会社で社長をめざそう」と、目論んでいました。
ところが、住友セメントは人材が豊富だったので、住友大阪セメントでは、私は常務で終わってしまいました。このころ、私と同じように人生設計が狂った人はたくさんいたことでしょう。
その後、私はオーシー建材工業株式会社という、万年赤字の関連会社の社長になりました。追いやられたというのが実情です。
ところが、この出来事が、私の人生においてもう一つのターニングポイントとなるんですから、人生とは不思議なものです。この万年赤字会社の社長をすることで、「当たり前の経営」のヒントを得られたのです。
オーシー建材工業は、20年近く、ずっと赤字が続いていました。これを、私は半年で黒字化しました。
大阪セメント時代、いろんな事業に携わったり、会社を見てきたりして思ったのが「倒産する会社には同じ傾向がある」ということです。挨拶、報告・連絡・相談、正しい会議といった、至極当たり前のことができていない。オーシー建材工業も同様でした。
オーシー建材工業で私が大きく変えたのは「チェック機能」でした。
新たに仕事を受注する際、当然ですが、会社に利益が出る形で見積もりを提出します。けれども、案件が終了するたびに、オーシー建材工業ではなぜか赤字になっていました。
建築に限らず、仕事には仕様変更がつきものです。そういった変更が起きるたびに、本来なら価格決定権を持つ人に確認すればよいものを、万年赤字会社はそのまま価格を変えずに流してしまっていました。それが、積もり積もって赤字へとつながっていたのです。
私は、ごくごく当たり前のことを実行しました。見積もり以外のことが発生したら、お金の流れをいったん止め、確認をする機能をつくる、それだけです。たったこれだけで、半年後、20年続いていた赤字を、黒字化させました。「当たり前のことをするだけで、会社は変わる」。私の「当たり前の経営」が芽吹いた瞬間です。
会社がうまく回り始めると、社長は暇になるものです。当時、市場に出回ったばかりのワープロを使って、私は経営についての本を書き始めました。これを出版社に持ち込んでみると、「大変よろしい」ということで、出版が決まったのです。『“当たり前”から始めてみよう! ―プラス思考の社長学』(同友館)です。
1万冊は売れたのではないでしょうか。定年退職をする3か月前には、「うちでセミナーをしてもらえないか」「当社のコンサルタントになってほしい」と、クライアントが殺到しました。こうして、私は30歳のころに一度は諦めたコンサルタントという道を、65歳から歩み始めることになるのです。
セミナーの登壇者として、日本全国を回りました。セミナーを行うたびに、個別コンサルの依頼や、次のセミナーのオファーが舞い込みました。ありがたいことに、独立後から86歳の現在まで、ずっと忙しくさせていただいています。
「当たり前の経営」とは
これまでにお伝えしたように、私が大切にしているのが、「当たり前の経営」です。お待たせしてしまいましたが、ここから「当たり前の経営」についてのお話です。でもね、少しだけですよ。だって、本の1冊に満たない分量では、とても書ききれませんから。
「当たり前の経営」が難しいのは、聞いて理解するのは簡単、けれども、それを習慣化し、実行するのが困難なところです。コンサルタントとして入った会社で毎回、「当たり前の経営」について説くのですが、そのたびに、みなさん「わかりました!」と元気よく返事はしてくれます。しかし、まぁ、なかなか定着しません。それだけ、多くの会社はそんな「当たり前」を実行できていないということです。これを習慣化させるのが、コンサルタントの腕の見せどころでもあります。
ここでは正しい報告・連絡・相談と、よい会議についてお伝えします。ぜひ、ヒントにしてみてください。
① 報告・連絡・相談を滞りなく行う方法
「報・連・相」は、よく耳にする言葉ですが、できていない会社は多いですね。そういう会社はそもそも、挨拶などの必要最低限のコミュニケーションも取れていません。
朝、出社してくる社員が静かにノソッと入ってくる。夜、終業後も、気がつくと姿が見えなくなっている。いまの若い人は、挨拶をするときも、相手の目を見ず、聞こえるか、聞こえないかくらいの音量で呟く感じ。
こういう人に「挨拶をしろ」と叱っても、言うことを聞いてくれません。それではどうするか。簡単です。こちらから、「おはよう」と声をかけるのです。
ムスッとしているような人でも、上司から挨拶されて無視する社員はいません。「おはよう」「お疲れ様」と、こちらから挨拶していれば、1週間もたてば相手も変わります。
そうして土壌を整えたら、いよいよ本題の、正しい報告・連絡・相談です。
報告・連絡・相談すべき情報には、大きく分けて「いい情報」と「悪い情報」があると思います。「いい情報」は文字通り、会社にとってプラスの情報なので、報告・連絡・相談に迷う人はいませんね。
問題は、「悪い情報」です。社員としては、自分のミスで会社に損害を生じさせたら、なかなか言い出しにくいものです。かと言って、これを放っておいてはいけません。クレーム処理の場合は、時間が経つにつれて、損害賠償金が大きくなるケースがあります。経営者としては、早急に報告してほしい情報です。
私は、とある会社でこんな“法律”をつくりました。「悪い情報も、すぐに開示すれば罪を問わない。ただし、隠蔽した場合は、厳罰に処す」。実施したところ、言わずもがな、報告・連絡・相談のスピードは格段に上がりました。
情報とは本来、経営者やマネージャー、上司など「受け手」が必要か不要かを判断するもので、報告する側の人間がそれを決めてはいけません。「何でも相談してほしい」「いいことでも、悪いことでも、すぐに伝えて」「何か問題があるのなら、みんなで考えよう」と、日頃から伝えておくことも大切ですね。
② よい会議とは「出席したくない」会議
定時を過ぎた深夜まで、社員が会議を続けている様子を見て、経営者の中には「うちの社員は、頑張り屋だ」と思う人がいるかもしれません。でも、それは、浅はかです。大切なのは、中身です。
全員とは言いませんが、会議に出席している社員の中には、一言も発していない人や、ボサッとしている人がいるものです。一部の人たちにとって、会議は「働かなくていい時間」となってしまっています。
いまでこそ、zoomなどのITツールを使用したオンライン会議もありますが、昔は全国各地から30人、40人の大人たちが集まり、何時間もかけて話し合うことがありました。このように「集まること」だけが目的になってしまっている会議は、お調子者の人間の独演会になるだけですね。その場にいる全員が、果たして本当に出席する必要があったのか、疑問が残ります。
一見、「盛り上がった」と感じるような会議も、要注意です。「よし、明日から頑張ろう」「じゃあ、この後、1杯飲みに行くか」……。そして、翌朝、何について話し合ったのか忘れてしまう。こんなことなら、この会議の時間、どこかに訪問営業したほうが、うんとお金になります。
これらは、正しい会議の方法を知らないから、起こり得ることです。「当たり前の経営」では、以下のようにして会議を行います。
❶ 必ず1人1回は発言する
❷ 司会を毎回変える
❸ 議事録をとる
❹ 会議で決めたことは必ず実行する
まず、出席者全員に、1回は発言することを義務付けてください。出席中「ボサッと」は厳禁です。発言の際「特にありません」もNGです。
先ほどの「①報告・連絡・相談を滞りなく行う方法」にもあったように、話す側が情報を選別してはいけません。どんな些細な内容であっても、全員が発言しやすい雰囲気づくりを心がけてください。
そして、司会は順々に受け持つようにしましょう。毎回社長が担当し、会議が講演会のようになってはダメです。順番に司会が回ってくることで、当事者意識も高まります。
会議の際、議事録を取る会社は多いと思いますが、その作成方法にはちょっとしたコツがあります。発言ごとに「マーク」を付けるのです。
例えば、発言の内容が報告事項なら「報」、相談なら「相」、課題なら「課」、雑談なら「雑」といった具合に、その発言がどれにあたるかを、記録しておくのです。会議には、雑談も必要です。けれども、雑談ばかりではいけませんね、ということです。誰が、具体的にどんな発言をしたのかを残しておけば、ほどよい緊張感も生まれます。
最後に、会議で決めたことは「必ず実行する」ことを徹底してください。「課」として挙がった議題については、次の会議までに「誰が」「何を行うのか」をしっかり決めておきます。そして、次の会議では、その成果を報告します。たまに、「前の会議の振り返り」として、前回話し合ったことをすべておさらいする会社があります。これでは、時間がいくらあっても足りません。「課」と記された項目だけを振り返り、現状報告や、達成度、そして、次回までに何をするべきなのかを話し合いましょう。
まとめます。よい会議とは出席者全員が発言をし、司会はローテーション。議事録をとり、浮かび上がった課題については、その場で対策や実行策を決める。そして次の会議では、その課題について、誰が、どれだけ、何を達成できたかを報告し合う。
なかなか、面倒ですね。つまるところ、よい会議とは、誰もが「出席したくない!」と尻込みしたくなる会議なんですよ。
社員を信じるな。でも、信じろ!
「経理担当だった元社員が、会社の資金約3000万円を着服」
「営業担当が売り上げの約1000万円を横領」
時折、このようなニュースが世間を騒がせますね。会社のお金を着服した社員は、懲戒解雇などの処分は避けられないでしょう。
こういった事件が発生した場合、みなさんは、社員が悪いと思いますか? もちろん、会社のお金を盗るということは、あってはならないことです。けれども、私はそのような「抜け穴」をつくってしまった、会社側に非があると考えています。
会社には、いろんな事情を抱えた社員が働いています。「親が病気で倒れ、急遽、治療費が50万円必要になった……」「でも、今月は苦しい。せめて、あと5万円現金があれば……」このようなとき、人は「会社からちょっとだけ借りよう」と思うものです。そして、その後に、こっそり返すんです。
しかし、一度このようなことをしてしまうと、行動がどんどんエスカレートしてしまう傾向があります。初めは5万円だったのが、10万円、100万円と膨らみ、翌月の給与後に返していたのが、賞与後になったり、はたまた返さなくなったり……と、ことが大きくなります。少額であればあるほど、誰も気づきません。経理業務を担当者に任せきりの会社であればあるほど、事態の発見が遅くなります。
昔は、そろばんで計算をし、手書きで帳簿をつけていました。けれども、いまは会計ソフトで簡単に帳簿を操作することができます。知人の会社では、3億円を横領した人がいました。社長が数字に弱いとなると、お金を管理する部署は、なおさら犯罪の温床になります。
それでは、どうすればこの事態を防ぐことができるのか。やはり、オーシー建材工業の例でお伝えしたようなチェック機能です。会社のお金が動くたびに、決済を要するシステムを導入するだけでも、ずいぶんと防ぐことができるようになるでしょう。
教訓として、会社のお金を着服した社員が悪いのではない。そのようなシステムをつくった会社や経営者が悪いのだと肝に銘じておいてください。善良な社員を犯罪者にしてしまうのは、抜け目のある会社の仕組みのせいなのです。
そう言う意味では、ことお金に関しては、社員を信用してはいけません。必ず、チェック機能を設けるようにしてください。けれども、業務に関しては、社員を信用し、任せなければ会社の仕事は回りません。
社員、経営者が「いい会社にしていこう」と手を組み、お互いを信頼し合うためにも、最低限の仕組みは構築しておくようにしましょう。
私とクライアントの最初の約束
私にコンサルティングを依頼いただく際、経営者に必ず約束してもらっていることがあります。それは「かまどの灰まで、必ず見せる」ということです。
コンサルタントは、言うなれば企業にとっての医者です。悪いところを治し、よい状態に近づけていくためには、正しく脈を測ること、疾患歴や、どのような食生活を送っているかなど、現在の状態を正確に把握することが欠かせません。見栄を張らず、会社の売り上げや事業規模、課題だけでなく、脱税に近いことはしていないかなど、きちんと教えてください。
かく言う私も、現在に至るまで、どの会社でもコンサルティングに100%成功しているかと問われると、そうではありません。
コンサルタントになりたてのころは、とにかく一生懸命でした。時には、コンサルティングに入った会社で、社長を介さず、直接、そこで働く社員と体当たりでぶつかり、会社を盛り上げていくこともありました。
すると、次第に社員の心が私に集まってくるようになりました。私自身も、少し図に乗っていたのかもしれません。この状況に危機感を募らせた社長から、ある日突然、クビを宣告されました。
数年前も、同じ失敗をしました。その会社は、IT系の企業で、社員は朝10時から、遅いときには、12時に出社してくるような社風でした。
これではいけないと、私は全員参加の朝のミーティングを設定しました。ミーティングに参加するためには、社員は遅くとも朝の9時には出社しなければなりません。
ところが、「自分のペースで出社できるほうがよかった」と反発した社員たちが、社長に「コンサルをとるのか、私たちをとるのか」と直談判し、結局、私は「お暇」となりました。
どちらも、私の進め方が問題でした。この年になっても、反省すること、まだまだ勉強すべきことがたくさんあります。
一方で、多くの企業は「86歳のおじいさんが、真剣に向き合ってくれている。それなら、私たちも本気で頑張るしかない」と共感してくれます。何が言いたいかと言うと、いま、うまく行っていない会社も、道中、失敗することはあっても、努力すれば、最後はきっと好転するということです。
こうして、ありがたいことにたくさんの会社の業績アップに携わってきました。業績が上がるにつれ、そこで働く人たちの目がキラキラと輝いてくる様子を見るのは、何度経験しても飽きることがありません。
よいコンサルタントの条件は何か。脱税などの悪知恵を入れないこと。人として、器が大きいこと。見栄っ張りではないことなど、いろいろありますが、結局、最後はコンサルタントと社長の「相性」だと考えています。お互いに信頼でき、尊敬の念を抱けなければ、どんな仕事もうまく進みません。
20年以上、コンサルタントを続けて、最後にお伝えするのが「人の相性だ」だなんて、申し訳ないですね。けれども、それだけ「人と人とが惹かれ合う」ことは重要なことだと思っています。
こんな私にご興味をお持いただいた方はいますか? もし、いらっしゃったら、私との相性がよいのかもしれませんね。